不運な犠牲者悼む靖国神社
日本人の民族性の発露
残念な外国の批判と無理解
このところなにかというと、すぐ中韓両国の日本批判に靖国神社参拝が持ち出される。秋季例大祭が行われた10月、首相が供物を奉納し、閣僚や国会議員などが参拝したときもそうだった。
日本叩きに、これほど手頃で、便利な材料も他にないからだろう。批判の対象者も死者だから叩き易い。それに日本人もこれを持ち出されると、戦争に関わってくるので、どうしても良心的に怯(ひる)むところがある。それが第一の狙い目でもあるのだろう。しかし、死者には敵も味方もないのだが、死んだ者は、みな戦犯者といいたいのだろう。
第2次世界大戦が終わって間もなく70年がたち、あらゆるものが遠い過去になりつつある。戦争経験者もきわめてわずかになった。戦争に関して議論を張る人たちも、それがどんなものなのか、体験していないと分からない。
ここで私のことを言うと、ちょうど生まれて1年後の昭和12年7月、日中戦争が勃発し、開戦10日もたたずして父親は赤紙1枚で、戦地に行ってしまった。そして重傷を負ったものの殆ど奇蹟的に戻ってきた。しかし、この結果、家庭はほとんど崩壊寸前の状態が続き、戦争との因果は以来ずっと離れることはなかった。
そんなことから成人後は、もっぱら戦争など遠い過去のこととして、忘れることにしていたのだが、国外に旅する機会が多くなってから、むしろずっと身近なこととして思い出されることがしばしばだった。かつて戦場だったミャンマー、インドシナ半島、ジャワ、フィリッピン、南洋諸島の各地で見かけた戦没者の埋葬地にぶつかると、途端に幼少期の頃に立ち戻るからだった。というのも小学校に入学した低学年の頃、周囲には戦地に行ったまま帰らぬ親をもつ仲間が、幾人もいたからで、彼らのことが急に思い出されたからだった。
たしか1970年代のこと、たまたまシベリア地方を東から西へ旅することがあった。そのとき驚いたことには、シベリアの各地に日本人兵士の墓地があったことだった。彼らは戦争での戦死者ではなく、戦後シベリアに抑留され、現地で死去した人を埋葬した墓地で、決して粗略に扱われたものでなかった。
旧ソ連地域での日本人墓地はシベリア地方だけかと思っていたら、実はさらに西方の中央アジア各地にもあった。これはシベリア地方に抑留された日本の旧兵士たちが、はるか西方のトルキスタン地方にまで連行されて来て、重労働に従事させられていた事実だった。
当時、ソ連の統治下にあったカザッフ、キルギス、ウズベク、タジックにも沢山あったように記憶する。この地域の宗教はイスラム教なのだが、墓地はしっかり造られており、これは現地民が日本人に好意を持っていたからだということだった。興味深いことは、各民族の風俗やその人情・性格を知る一番の手掛かりは、その埋葬方式だという。
ところでこんなことで驚くのはまだ早い。シルクロードのもう突き当たりに近い、トルクメニスタンのカスピ海西岸端に行ったとき、この港町アシュハバードの岸に臨んだ断層上におびただしい日本人兵士の墓地があった。この海を一跨(ひとまた)ぎすれば対岸は拝火教の生まれたバクーであり、ここはイラン、トルコ、ギリシアに通じるルート上にあり、明治以来、彼らより早くこの地を踏んだ日本人は、せいぜい数人といなかったろう。それほどの僻地(へきち)だったこの地に、数百人もの犠牲者が埋葬されていたとは、とても信じられないことだ。
また民族の性格の相違がはっきりした例があった。まだ日中戦争の始まる1年前の昭和11年、日本はドイツのユンカース社と共同してシルクロードを経由し、欧州と結ぶ航空路線を開発する計画を立てたことがあった。途中、イラン、アフガンを抜け、中国と結ぶコースがある。そこで西モンゴルのエチナでまず飛行場建設のため、日本人が建設工事に従事していた。ところが中国軍兵士に襲撃され、10人近くが処刑され、その上、死体の首を斬り落として晒(さら)しものにまでした。その残忍さはとても人間のものと思えない。
こうした不運な犠牲者たちも、みな軍国主義の先兵にされてしまう。ごく最近、日本を訪問したアメリカの政府高官も、靖国神社を避けて千鳥ケ淵に行っている。これも十分な計算の上での行動だったろうが、このことを知ったとき、昔の幼少期の記憶が突如、甦(よみがえ)った。嫌なことだ。当時の学校では、アメリカという国は何でも打算をとる国で、信用できないのだと習った。A級戦犯は、ちゃんと将来天皇になる予定の人物の誕生日にあわせて、刑を執行している。
しかし、我が国はたとえユーラシア大陸のはるか遠方で命を落とした人であっても、その霊には差別はなく、犠牲者を手厚く埋葬し、今日にも残る。死者を哀れみ追慕するのは民族の性格であろう。遺骨を埋葬する墓と無名兵士の御霊をまつる神社と違いはあっても、追悼の情は同じであり、このような死者に手厚い日本人の性格や文化は他民族には理解がむずかしいであろう。残念なことだ。
(かねこ・たみお)