日台の信頼築いた八田與一

濱口 和久拓殖大学日本文化研究所客員教授 濱口 和久

台湾教科書に載る日本人

烏山頭ダム建設事業の功績

 日本の大学の大学院で会計学を学び、今年3月、台湾に帰る留学生と食事をする機会があった。そのとき「あなたが尊敬する日本人は誰ですか」と留学生に訊ねると、「台湾の経済発展(農業生産力の向上)に大きく貢献した八田與一(はったよいち)先生です」という答えが返ってきた。

 台湾の留学生が尊敬する八田與一とはいかなる人物なのか。八田は明治19(1886)年、石川県金沢市の農家に生まれる。東京帝国大学土木工学を卒業後、24歳のときに台湾総督府内務局土木課技手として台湾に赴任した。

 台湾に赴任当初、マラリアなどの伝染病予防対策に従事した。28歳からは水利事業を担当するようになる。

 大正7(1918)年、八田は台湾南部の嘉南平野の調査を行った。同平野は灌漑(かんがい)設備が不十分であるため、この地域にある15万㌶ほどの田畑はつねに旱魃(かんばつ)の危険にさらされていた。

 八田は、民政長官であった下村海南の一任の下、官田渓という川の上流の烏山頭で、川をせき止めてダムを建設し、ダムから平野に水を供給する給排水路をはりめぐらす構想をまとめた『嘉南平野開発計画書』を作成し、台湾総督府に提出する。

 ダム建設は受益者が「官田渓埤圳組合」を結成して施行し、半額を国費で賄うこととなった。このため八田は、国家公務員の立場を自ら進んで捨て、組合付き技師となり、ダム建設が始まった大正9年から烏山頭の官舎に家族とともに移り住み、昭和5(1930)年にダムが完成するまで工事に携わる。

 総事業費5400万円を要したダム建設は、満水面積1000㌶、有効貯水量1億5000万立方㍍の大貯水池「烏山頭ダム」として完成した。水路も嘉南平野一帯に1万6000㌔㍍にわたって細かくはりめぐらされた。この水利設備全体が嘉南大圳と呼ばれているものだ(斎藤充功著『日台の架け橋・百年ダムを造った男』)。

 烏山頭ダムの完成によって、嘉南平野は緑の大地に生まれ変わり、台湾最大の米穀産地となった。米国の土木学会は烏山頭ダムを「八田ダム」と命名し世界に紹介しているほどである。

 台湾の経済発展は、嘉南大圳の完成によって始まったと言っても過言ではない。「嘉南大圳の奇跡」と言ってもいいだろう。

 実際、ダム完成後の7年目には、米の生産額はダム完成前の11倍に達し、サトウキビ類は4倍に達した。この地域で生産された農作物は、その後、日本本土(内地)への一大移出品となった。加えて、農作物の移出で得た利益を工業化の資金に転用することで、台湾経済の産業高度化にも大きく貢献した。

 その後、八田は台湾総督府に復帰し、勅任技師として台湾の産業計画の策定などに従事する。

 しかし、昭和17年5月8日、八田は陸軍に徴用されてフィリピンに向かう途中、乗っていた輸送船「大洋丸」が米国の潜水艦の魚雷攻撃を受け撃沈され、56歳でこの世を去った。

 3年後、戦争に敗れた日本人は一人残らず台湾を去らなければならなくなった。烏山頭に疎開していた妻・外代樹(とよき)も、昭和20年9月1日深夜、八田が心血を注いだ烏山頭ダムの放水口に身を投げ自殺した。

 八田は日本よりも、彼が実際に業績を挙げた台湾での知名度のほうが高い。烏山頭ダムでは八田の命日には慰霊祭が毎年行われている。烏山頭ダムにある八田の銅像はダムの完成後の昭和6年に造られたものであるが、蒋介石時代に日本の残した建築物等の破壊がなされた際にも、地元の有志によって守り隠され続け、昭和56年になって再びダムを見下ろす場所に設置された。

 八田が顕彰される背景には業績もさることながら、ダム建設時の土木作業員の労働環境の改善に尽力したことや、危険な現場にも自ら進んで足を踏み入れ、五十数人が死亡した大惨事の後の慰霊事業では、日本人も台湾人も分け隔てなく慰霊を行ったことなどで、信頼を得たことも大きかった。

 烏山頭ダムは、現在も使用されており、友好的な「日台関係の象徴」と位置づけられ、嘉南平野を潤し続けている。

 平成13(2001)年、現地の人々によって、八田の業績をたたえて、放水口のすぐ近くに「八田與一紀念室」が造られた。平成23年5月8日には、八田が家族と一緒に住んでいた官舎を復元した八田與一記念公園がオープンし、烏山頭水庫入り口から公園に続く道路が「八田路」と命名された。

 海外で日本人の名前が道路に残されたのは、トルコの東郷平八郎の名前をとった「トーゴー通り」の2カ所だけだ。翌年には八田與一記念切手も発売されている。

 また、平成16年末に訪日した李登輝総統は、八田の故郷である金沢を訪問。平成19年5月21日には、陳水扁総統が八田に対して、褒章令を出しているほどだ。

 中学生向け教科書『認識台湾 歴史篇』にも、八田の業績は詳しく紹介されている。台湾人に愛され尊敬されている日本人の一人が、八田與一なのである。

(はまぐち・かずひさ)