パラオで続く日本兵の慰霊

濱口 和久拓殖大学日本文化研究所客員教授  濱口 和久

両陛下70年節目に御訪問

現地人退避させた軍は全滅

 天皇・皇后両陛下が、戦後70年の節目にあたり、パラオ共和国を公式訪問されることが1月23日の閣議で決定した。両陛下は以前から、パラオでの慰霊を希望されていた。昨年来日したレメンゲサウ大統領からの招待もあり、今回は慰霊と友好親善が訪問目的となる。

 宮内庁の発表によると、両陛下は4月8日に民間チャーター機でパラオ入りし、親善行事に臨んだあと、激戦地となったペリリュー島で、慰霊碑「西太平洋戦没者の碑」に供花し、9日に帰国される予定だ。両陛下の外国への慰霊の旅は、戦後60年にあたる平成17年にサイパンを訪問されて以来、2度目となる。

 日本から約3000㌔㍍離れた中部太平洋に浮かぶ南洋諸島の最南端にパラオ諸島はある。1543年にスペインが発見して統治を開始したが、ドイツが買収すると、第1次世界大戦までドイツ領であった。その後、大東亜戦争終了までの31年間、日本が委任統治をする。日本の敗戦後はアメリカの統治下にあったが、1980年にパラオは独立国家として大統領制を採用し、国名をパラオ共和国とした。実に約400年間にわたり、外国の統治下に置かれていたが、パラオの人たちは「日本の委任統治時代が一番暮らしやすかった」と、回顧している。

 この背景には、日本が現地の人たちに実施した日本流の教育成果と、在留邦人がパラオの人たちと良好な関係を構築したことに加えて、ペリリュー島を防衛するため、上陸してくる米軍を相手に、玉砕するまで戦った日本軍の勇猛果敢な戦闘ぶりへの敬愛の念からだといわれている。

 日本軍にとって大東亜戦争末期、フィリピンの防衛上、ペリリュー島は最重要な拠点であった。一方、米軍を指揮するマッカーサーにとってもペリリュー島は、フィリピン奪還にあたって、どうしても攻略しなければならない拠点であった。日本軍は米軍の上陸に対して島内に深く洞窟を構築し戦ったが、日本軍の弾薬・食糧は底をつき、約2カ月の戦闘の末、1万2000名いたペリリュー守備隊は、五十数名を残すのみとなった。日本軍守備隊長の中川州男(くにお)大佐は、パラオ地区集団参謀長宛てに訣別の電報を打ち、最後の突撃攻撃を実施し全員が玉砕した。

 ペリリュー島の西海岸を米軍は占領後「オレンジ・ビーチ」と名づけた。日本軍との戦闘の末、美しい海が米軍兵の血の色でオレンジ色に染まったからだ。

 米軍の上陸作戦により、ペリリュー島は文字通り焦土と化し、現地の人たちの建物も緑も生活も破壊されてしまった。日本軍は現地の人たちが戦火に捲(ま)き込まれないように、夜間、空襲を避けながらパラオ本島に退避させた。戦争が終わり帰島し、彼らが見たものは日本兵の戦死した遺体の山であった。彼らは日本兵の遺体を葬り、墓を作った。

 ペリリュー島に1934年、「南興神社」が建立されると、現地の人たちは、同神社を「ペリリュー神社」と呼称して、島の安泰と繁栄を祈願してきた。

 戦後、「神社を再建し、戦死者1万名もあわせ合祀(ごうし)せよ」と要望したのは、同島尊長(そんちょう)を務めたイサオ・シゲオ氏の母で、日本名が沖山豊美という老女であった。現地の人たちの親日感情はこれほどまでに強く、いまだに日本語や日本の文化・風俗がパラオには色濃く残っている証拠でもある(名越二荒之助著『世界に生きる日本の心』展転社)。

 特にパラオの独立に際して、国旗のデザインをパラオ全島から募集したところ、秀作が70点ほど集まり、その中で日本の国旗と同じデザインが選ばれた。

 ただし、日の丸の部分が黄色、白地の部分が青とした。パラオの人たちは、その理由を次のように説明している。

 「私たちは国旗の選択に相当苦労した。応募者は悉(ことごと)く各島の人々であり、それぞれの旗にパラオの歴史と伝統がこめられていた。だから、選考委員は真剣であった。選考には日数をかけた。でも最終的にはこの旗に決まったのは、日本の旗に一番似ているので、人気が集まった。日の丸の部分を黄色にしたのは、月を表す。周囲の青地は海を意味する。月は太陽が出ないと輝くことができない。つまり月は太陽によって支えられ、月としての生命を持つ。太陽とは日本のことなのである。海に囲まれたパラオという国は、日本の太陽の反射によって輝かねば生きられないのである。我々はまた戦争中に、日の丸を掲げて強力な米軍と交戦した日本軍将兵の勇敢さと純粋さに、大きな魅力と尊敬を捧げている。1万に及ぶ英霊たちは私たちに、勇気と国を想う心があれば、米国よりも強くなれることを教えて死んだのである」(NPO法人南洋交流協会ホームページより)。

 パラオ共和国の独立を記念して、ペリリュー島守備隊を讃(たた)える歌もつくられた。日本軍への尊敬の気持ちは、現在もパラオの人たちの心に刻み込まれ、日本とパラオの絆となって生き続けているのである。

(はまぐち・かずひさ)