私もシャルリーではない

渡辺 久義京都大学名誉教授 渡辺 久義

挑発にも程がある風刺

大行進に対テロ戦争を懸念

 タイトル(「私もシャルリーではない」)は、あるインターネット・サイトへの投稿論文「私はシャルリーではない」を借りたものである。現時点(1月13日)までに私の読んだ十数編の英文論文を引用しながら、まとめる形で、7日のパリの風刺雑誌社襲撃事件について、私見を述べてみたい(今のところ、これを含め、その3篇を翻訳紹介しているので、創造デザイン学会サイトをご覧いただきたい)。

 すべての論文が基本的に同じスタンスで、私には納得できるもので、このタイトルは全体に通用すると思われる。「私はシャルリーだ」というプラカードをもった大デモ隊に対しては、共通して批判的だ。私にとって最も不可解でかつ不気味なのは、このデモの異常に大きな規模で、これは未来の恐ろしい展開を予想させる。

 上記の論文は、この雑誌社の執拗(しつよう)なイスラム教徒への挑発を、まるでレール上で昼寝をして、轢(ひ)くなら轢いてみろと待っているようなものだと言う。これはわかり易い比喩だ。殺された一人が描いて掲載したばかりの漫画が引かれており、カラシニコフ銃を背負い、アフガンの服を着た、この雑誌社では典型的だという“気違いムスリム”が、何かしゃべっている。これはフランス語で、「フランスではまだテロ攻撃がない? 待ってろ! 1月の終わりまでにはきっと願いを叶えてやる」と読める。「愚かな挑発にも程がある」と筆者は言っている。

 彼は他者の信奉する宗教に対する侮辱を、ロシアにある表現を用いて、「人々の魂に唾を吐きかける」行為だと言う。その通りであろう。世界の16億のムスリムの中に、このような挙に出る者が数人いるのは「統計的必然」だと言う。にもかかわらず、このあと「フランス全国が深く喪に服し、世界中の何万という人々が“私はシャルリーだ”と言い、すすり泣き、ろうそくを灯し、言論の自由に対して“勇気ある”態度を取っている。私に言わせれば、これは“ワニの涙”だ」。

 この点で、私の読んだ多くの論文が「偽善」という言葉をよく使っている――「偽善者たちのマーチ」「シャルリー・エブドと文筆の偽善」など。前者は、「パリでは人々は“言論の自由”を求めて行進をした。やがて彼らは戦争へと行進するだろう」と言っている。これが怖い。

 今度の事件で、今までよく考えなかったことを、考えざるを得なくなった。今後、9・11以来のスローガン「テロへの戦い」が一段と厳しさを増すのは必然的だが、“テロリスト”とはそもそも誰のことか? テロリストとは、権力エリートの地球制覇アジェンダに抵抗する者のことで、内外どこにでもいるはずだから、警察国家体制はこれを機にますます強化されるであろう。

 彼らの一方的に定義するテロを抑え込むために、その何倍も残酷で理不尽なテロが用いられているのが実情である。にもかかわらず、それは存在しない、報道してはならないことになっている。これらの論文の多くがそれを指摘する。彼らが地球を乗っ取るためには、「悪い奴ら」を滅ぼす戦争をしなければならない。もし「悪い奴ら」がいなければ、作らなければならない。そのために利用されているのが、社会的弱者であるイスラム諸国だと言ってよい。

 言語学者ノアム・チョムスキーの論文はこう言っている――「テロリズムは、正義を自称する者たちが、その力によって、それよりもっと残酷なテロ攻撃を行うときには、テロリズムではない」。9・11直後にブッシュ(子)大統領はしきりに、「君たちは我々につくか、テロリストになるか、どちらかだ」と言った。これは「我々帝国主義テロリストにつくか、弱く貧しいテロリストの側につくか、どちらかだ」という意味でなければならない。

 「偽善者のマーチ」によれば――「この認識上の不和」は、“私は行進しているが、この状況の混乱と偽善を意識している”と書かれたプラカードをもった、あるフランス人によって雄弁に表現されていたという。デモの参加者は一応の識者のはずだから、「偽善を意識している」人たちもいるはずである。

 以下、「シャルリー・エブドと文筆の偽善」から引用してみる――「新聞社説を書く人々が強いのは、彼らの知恵や理性によってではない。権力者とその銃に従うことによって強いのである。ここから明らかになるのは、言論の自由を擁護する進んだ西洋という物語をつくり出す人々の偽善だけではない。それは同時に、返報としての、恐ろしいテロリズムの行為が予測可能で、不可避なことを示している。もちろん、この最近の残虐行為を行った3名の心の中で、何が起こっていたのかはわからない。しかし、こうした襲撃が起こった、短期的・長期的な脈絡を無視するのは、歴史を知らない無教養の極みだ。…最近の歴史をざっと見渡しただけでも、異常というべきは、この恐ろしい事件が起こったことでなく、こうしたことがもっと頻繁に起こっていないことだ。世界のムスリムのごく少数者だけが、無限の挑発に対してこのような行動に訴えるということは、総体としての彼らの忍耐強さの証拠なのである」。

(わたなべ・ひさよし)