能力主義と三権分立を守れ
省庁単位の人事が妥当
ムリがある内閣「人事局」案
官僚の人事について菅義偉官房長官の構想に反対する論を述べる。
菅官房長官は、安倍首相の信任厚く、マスコミの受けも良いようで順風満帆。得意になって「官僚の人事は俺がやる」と言い出した。さすがは貧困から叩き上げた苦労人、権力のツボをよく察している。人事権力によって多数の優秀な官僚を掌握すれば、権力は思いのままであるからだ。
しかし、叩き上げの人は、権力欲は強いが、国家国民のために一身を捧げるというエートス(倫理)は乏しいことが多い。かの田中角栄、金丸信の輩がそうであった。また、学業に恵まれていなかったので、ビジョンと学識に乏しい。これらは、エートスと共にエリート官僚がしっかり持っている(はずの)ものである。
権力欲が強くて、エートス、ビジョン、学識の乏しい人物がトップに立って官僚組織を自由にすると、その弊害は大きく、とどまるところを知らないものとなる。
アメリカでも日本でも、その弊を防ぐために、メリット・システム(能力主義)の公務員人事制度と三権分立とを保って来ている。菅氏の野望はこの二原則を破壊しようとするものである。
すでに「政務三役」(大臣・副大臣・政務官)と称して70人もの国会議員が省庁の幹部に入り込んでいる。国会は立法機関というよりは、こうして行政機関に入り込む人材のプールの観をなしている。年収数千万円をもらいつつ省庁の幹部の席を待っているけっこうなご身分が、今の国会議員である。三権分立はどこへ行ったのか?
その上、菅氏は「能力の実証」無しに、自分の好きな(あるいは選挙に功労のあった)人物たちを省庁の官僚ポストに送り込むつもりのようだ。公務員法のうたっている「能力の実証」ほど叩き上げの輩の嫌う言葉はない(小沢一郎氏の怨念を見よ)。それは、厳密な公務員試験と同視されているからだ。
つまりはメリット・システム(能力主義)とスポイルズ・システム(猟官主義)の戦いとなる。菅氏は猟官主義をやりたいのだ。自党の選挙に貢献した学歴の足りない人物たちにホイホイと官職を呉れてやったら、菅氏はさぞ気持ちが良いだろう。しかし、国民はたまったものではない。公正で質の高い行政を受ける国民の権利・利益が侵されるからだ。そういう人物たちは安直に行政をし、簡単に腐敗するだろうからだ。
菅氏の指図であろう、内閣人事局を作って官僚の人事を各省庁から取り上げて、一本でやろうという法律の案も出されている。菅氏はこの人事局を使って「全官僚の人事は俺がやる」を実現したいのだ。しかし、人事局案にも問題がある。そういう構想は何度も出たが、みな失敗しているのである。ムリがあるのだ。
能力の実証は、若いうちはペーパーテストでよいが、上級の公務員については、ベテランの幹部が、候補者の永年の仕事ぶりと人柄を見、環境の作用(運不運)も勘案して、真に幹部となるにふさわしい能力があるかどうかを見極めるほかない。現在は各省庁単位で次官と官房長が主となってこの判定に当たっている。
かつてアメリカ占領軍の命令で人事院(GHQのペットと呼ばれた)が、日本の国家公務員の現職の幹部にペーパーテストを課したことがある。人柄や管理能力やビジョンが測れるものではない。さんざんの不評で、人事院が権威を失墜する一因となった。
また、かつてある内閣は「人事局」を実際に作って、そこへ全省庁の幹部の履歴書を集めることまでした。しかし、人事は履歴書を集めればできるものではない。この「人事局」も失敗で、消滅してしまった。
結局、今の各省庁が、ベテラン次官、官房長の見渡せる適正規模であって、そこで十分に仕事ぶりや成功、失敗、運、不運、熱意と巧妙さ、管理能力、指導性、人柄から家庭事情まで見て人事するのがよいのである。これは大臣にもできない。大臣は短期間しかその省庁の職員を見ていないからである。
日本式メリット・システムとは、かくして、内閣集中でなく各省庁分権的に、かつ法律上の任命権者である大臣でなく、次官、官房長の「眼」による能力の実証で行われる官僚人事であって、弊害はほとんどない。これを守るべきであって菅氏の野望は阻むべきである。
かつまた、三権分立は守らなければならない。とかく国会議員を行政に入れると、情報を取ったり、利権をあさったりするばかりで困る。議員は立法機関らしく、良い法律を作るために国民の声を聞いてまわる仕事に徹するべきである。
(参考・加藤栄一著『官僚です、よろしく。』1983年TBSブリタニカ刊)
(かとう・えいいち)