自主憲法派の世界連邦構想
無効論を退けた一因に
内閣憲法調査会報告書より
世界連邦構想(幻想)からする積極的平和主義
最近、1957(昭和32)年から1964年まで活動した内閣憲法調査会の報告書『憲法調査会報告書』(1964年)と付属文書を読む中で、二つの衝撃を受けた。第一の衝撃は、1963年9月の時点で憲法調査会委員40人のうち実に21人が、世界連邦又は世界国家が実現するかもしれないと考えていたことを知ったことだ。
世界連邦運動は、中学校公民教科書では1977(昭和52)年度まで掲載されていたから、少なくとも1960年代頃まではかなり大きな存在であったことは確かである。だが、それにしても、世界連邦という構想が、こんなに多くの委員たちの脳裏に刻まれているのかと思い驚いた。
憲法調査会は、社会党がボイコットしたためもあって、圧倒的に自主憲法制定派の委員が多数を占める組織であった。実は、この自主憲法制定派ほど世界連邦構想に囚(とら)われていた。
例えば、多数の自主憲法制定派が集結した共同意見書「憲法改正の方向」(八木秀次等17名、1963年9月)は、「将来は世界平和機構が確立されようし、国連の段階からさらに世界連邦、世界国家への方向が指向されようが(傍線部は引用者、以下同じ)、現段階においては国連中心主義をとるべきことに異論はあるまい。国連中心主義をとる以上、その集団安全保障制度に寄与しなければならず、これには第9条がすでに現実に障害となつている(例えば海外派兵問題)」と言う。
つまり、将来の世界連邦を見据えた形で国連中心主義を唱え、国連による集団安全保障体制に協力するためにも、9条を改正しなければならないというのである。すなわち、世界連邦の点を除けば、現在の安倍政権が進めようとしている積極的平和主義に通ずる立場である。
憲法無効論的な事実認識――独立国家の思想
私が受けた第二の衝撃は、憲法調査会の最終盤の時期である1964年、憲法調査会委員38名のうち実に29名もの圧倒的多数派が、「日本国憲法」無効論の一歩手前まで認識を進めていたことを知ったことである。中曽根康弘等の自主憲法制定派の委員は、憲法成立過程に関する共同意見書を認めている。共同意見書は、「日本国憲法」成立過程において日本側の自由意思がほとんど存在しなかったと述べた上で、次のように記している。
「第二次世界大戦以後出現した各国の憲法の中に、外国軍隊の占領下において、憲法の修正又は制定を禁止する規定を設けるものがあるが、日本の事態は正にこの規定の該当する外国による軍事占領下の、国民の自由意思の保障されない状態下における憲法制定であつたと認めざるをえないのである」
傍線部は、例えばフランス憲法(1958年)第89条④項「領土が侵されている場合、改正手続きに着手しまたはこれを追求することはできない」という規定のことを指す。共同意見書は、占領下の憲法改正を禁止したフランス憲法が想定した事態と同じことが日本占領下で生じたと言っているのである。フランス憲法の考え方からすれば、占領下で憲法が改正されれば当然に無効であるということになる。したがって、調査会の圧倒的多数派は、本来あるいはひそかに、「日本国憲法」無効論を主張しているのである。
しかし、この共同意見書は、無効論を明言しない。右引用に続けて、「しかしこのことは、制定経過における瑕疵(かし)を指摘するのであつて、この不幸な事態がいかなる事由で招来され、又、その制定の内容が将来いかなる意味をもつたかということは、別個に評価を要することである」と述べるだけである。何ともすっきりしない結論である。
では、フランスの例と同じだというなら、なぜ法的に無効であるという結論にならないのであろうか。それは、中曽根等29名のうち17名もが、世界連邦構想を考えていたからだと考えられる。自主憲法制定派の中の過半を占めることに注意されたい。彼らは、現在の日本人よりははるかに独立国家の思想を抱いており、その思想から、憲法無効論の一歩手前まで認識を進めた。
独立国家を過渡的に考える
ところが、世界連邦構想からすれば、独立国家日本という状況は過渡的なものとなる。それゆえ、日本の安全を守るために9条改正は強く願うけれども、米国等との軋轢(あつれき)を生むかもしれない無効論まで採用する必要はない、と彼らは考えたのではないだろうか。
しかし、世界連邦構想の現実性はとうの昔に消えている。今必要なのは、戦後日本が蔑(ないがしろ)ろにしてきた独立国家の思想の再建である。そのためにも自主憲法制定派は、今一度、中曽根他共同意見書が示した事実認識に立ち帰り、その事実認識の命ずるとおり、素直に憲法無効論の立場に転換すべきである。でなければ、日本は「日本国憲法」によって滅ぼされてしまうことになろう。(敬称略)
(こやま・つねみ)