占領改革を担ったユダヤ系

佐藤 唯行獨協大学教授 佐藤 唯行

戦後日本民主化に影響

“見果てぬ夢”GHQで実現

 連合軍の日本占領により数千人ものユダヤ系が占領軍将兵、GHQ(連合国軍最高司令部)文官として来日した。

 日本史上未曽有のユダヤ・ラッシュの始まりだ。これはルーズベルト政権の御家の事情による。同政権は多くのユダヤ系を文官に登用してきたので、その一部が日本占領統治に動員されたというわけだ。当時、プロテスタント系エリート白人(ワスプ)の多くが共和党支持だったため、民主党のルーズベルトとしてはワスプ以外の高学歴人材も官僚に登用せざるを得なかったのだ。

 この時代、ワスプ以外で高学歴人材を蓄積していたのはユダヤ系に限られていたのだ。民間大企業からの就職差別に苦しめられてきたユダヤ系の若者にとり、これは朗報だった。以後、自分たちを登用してくれたルーズベルト個人と彼が推進するニューディール政策そして民主党に忠誠心を捧げたのだ。

 彼らは米本国では共和党保守派による反対のため、ついに実現できなかった見果てぬ夢(徹底した民主化)を抵抗勢力が消滅した敗戦国日本なら、思い通りに実現できると喜びいさんで来日したのである。

 占領軍当局で需要が多かった日本語を話せる情報将校の中にユダヤ系が多かったのもユダヤ・ラッシュを生み出した一因だ。これはユダヤ系ならではの高学歴専門職志向のなせるわざだ。例えば1942年、17歳でプリンストン大学に入学した某ユダヤ系は米陸軍が日本語の話せる情報将校育成計画を立て、志願者を募っているのを学内掲示で知ると迷わずこれに応募している。18歳になれば自動的に徴兵され、配属先も判らない。けれど陸軍日本語学校へ入れば、危険な戦闘任務から免除され、将校の特権も手に入る。退役後は日本事情の専門家としての人生も開けてくる。

 まさに一石三鳥だ。彼はGHQで情報将校として勤務。帰国後は得意の日本語力を生かし大学院を修了し、大学教授になっている。

 こうした人生を歩んだユダヤ系は多いのだ。

 来日したユダヤ系の代表格がGHQ民政局次長のチャールズ・ケーディスだ。民政局とは日本の占領統治と戦後改革で中心的役割を果たした部局だ。ケーディスとその下の課長級こそ、各現場を仕切り、日本の進路に多大な影響を行使した集団といえよう。

 ケーディスはまず内務省解体に大鉈(なた)を振るった。治安維持に絶大な権限を行使した内務省は警察、地方行政、徴税まで支配する他国に類例をみぬ強大な官庁であった。内務省解体なしには日本政治の地方分権化は達成できぬとケーディスは主張し、その解体を推進したのだ。

 新憲法起草にあたっても指導的役割を果たした。合衆国憲法の中にも保障されていなかったふたつの権利、最低限度の生活権と労働権を日本国憲法(25条、27条)の中に盛り込んだのはケーディスの業績だ。日本政府とGHQ民政局との折衝役を吉田茂から任された白洲次郎は、当時ケーディスと度々衝突したが「押し付けられたからと言って全てを否定するのではなく、良いモノは良いと素直に受け入れるべきだ」と後に述懐している。

 最大の業績をあげたのはGHQ顧問のウルフ・ラデジンスキーだ。彼が主導した農地改革はGHQによる戦後改革の中で最良の成功事例といえる。地主による封建的搾取に喘(あえ)いでいた多くの小作農を苦役から解放し、夥(おびただ)しい自作農を誕生させたからである。「農地改革の父」と称(たた)えられるゆえんである。ラデジンスキーの改革案に強く反対したのは意外にも日本共産党の野坂参三議長だった。日本から不在地主が一掃され、小作農が自作農に上昇すれば、共産主義の伸張は極めて困難になるからだ。

 「労働法の生みの親」と称えられているのが民政局労働課長のセオドア・コーエンだ。

 彼の尽力で成立した労働基準法は労働者の国籍、社会的身分を理由とした差別を禁じ、1日8時間、週48時間を労働時間の上限と定め、児童労働を禁じ、違反を労働基準監督局へ提訴できることを定めるなど、極めて労働者寄りの内容となっている。同法は原案を作成したコーエンの願いを抜きにしては考えられないものだった。それは亡命ユダヤ系ならではの虐げられた弱者への同情心、抑圧者の専横を憎む気持ちといえよう。

 当然、日本の保守支配層からは嫌われていた。「コーエンは共産主義者だ」とマッカーサーに中傷の告げ口をする者の中には吉田茂もいた。マッカーサーは筋金入りの保守主義者だったが吉田茂の告げ口などとりあわず、コーエンらユダヤ系のニューディール・リベラリストたちを重用し、彼ら主導の占領政策をあと押ししたのだった。

 理由は明白だ。大統領の座を望んでいたからだ。当時、アメリカ国内の主要政治潮流、ニューディール・リベラリズムに迎合することで国民的支持を得ようとしていたのだ。今日のアメリカと異なり、アメリカ政治の座標軸は大きく左傾化していた時代だったのだ。

(さとう・ただゆき)