道理に適う集団的自衛権を

乾 一宇ロシア研究家 乾 一宇

「普通の国」への第一歩

不穏なロシア・中国の動き

 7月1日、限定的な集団的自衛権行使容認の閣議決定がなされた。これから国会で関連法案を巡って審議がなされる。

 昨年末の国家安全保障戦略策定、安全保障会議創設など主要国には当然の戦略方針、組織が日本にも備わり、敗戦から約70年、やっと日本が普通の国になり始めようとしている。だが、これまでも、これからも反対派は虚偽もまじえ反対行動を執拗(しつよう)にとるだろう。

 念仏平和主義者は恥の心を持たず、虚偽的言動を弄(ろう)して普通の国になることを阻んできた。敗戦にもめげず日本は世界第二の経済大国になることもでき、日米安保体制もあり反対派にも寛容であった。

 だがここ20年、経済は疲弊、社会保障も先行き不安、少子化が現実化し、日本に重苦しい空気が漂っている。光明は日本が普通の国として一歩を踏み出したことである。

 これまで戦勝国・米国の謂(い)う「精神年齢12歳」を甘受しながら、経済至上主義で過ごしてきた。だが、米国の財政事情の悪化、度重なる武力行使による厭戦(えんせん)気分などから、オバマ政権は世界の警察官であることを放棄した。すかさず、台頭著しい中国や西側に踏みつけられていたロシアが好機とばかり行動を採り始めた。

 日本の左翼、一部マスコミは、平和だ人権だと叫び、国民を煽(あお)ってきた。そこには日本をどのような国にするかを示さず、ただ反対のみを叫んでいる。戦勝国(彼らの場合は特に中ソ)の日本支配に加担することに精力を注いできたとしか言いようがない。だから、今もって戦勝国の定めた枠を乱すなと脅されている。これは今日、アメリカより中国の言動において顕著なところを怪しむべきなのである。

 戦争は国家の存亡を賭けて戦うものであり、何をやっても裁く者はいない。力は正義なり。勝者にのみ正義が宿る。敗戦国日本は、当時の国際法では認められない戦争指導者の処刑、米国製憲法の押しつけ、正当な領土の被奪取、東京空襲・原爆の民間人大量殺戮(さつりく)などをやられても、ただ泣き寝入りするしかなかった。

 敗戦から約70年、米国の衰退と中国の経済的発展・軍事力の大増強(国防費24年間で約30倍増、最近10年間で4倍)に直面している。中国の国際法無視の露骨な軍事力の行使は現実の脅威となっている。南シナ海、東シナ海で直面しているとおりだ。ロシアもクリミア編入と、虚を突いた行動に出ている。ウクライナ東部の親ロシア派を支援し、民間航空機を撃墜する事態まで起きている。また韓国も、中国の大国化を見、かつての朝貢国を想起させる中国傾斜の言動に出ている。これは戦略的な方針変更と見てかかるべきである。

 昨年末から国家安全保障戦略の策定、特定秘密保護法の制定、防衛装備移転三原則への改訂、集団的自衛権行使容認の閣議決定など、右記に述べてきた内外情勢の変化に対応する施策が、安倍政権下で相次いで進められている。右傾化を言う向きもあるが、どれも世界の普通の国が保有していることばかりだ。やっと、日本も普通の国になり始めているのである。

 集団的自衛権を例にとろう。中国訪問時に人民解放軍“野戦軍司令官”と自称した政治家・小沢一郎氏も大好きな国連憲章に明記されている、全加盟国が持つ権利を、日本はこれまで封印していた。これを各国並みにしようというだけだ。あくまでも、密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、日本が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を認めるということである。その権利を行使するかどうかは、あくまでも当時の状況の下、国益を考えて判断するのである。

 戦後の日本の歩みは、経済至上主義で、国際社会で軍事的貢献を避け、血を流さず、札束で糊塗(こと)してきた。

 日本の安全を単独で守れない現国際情勢の中、集団的自衛権を否定して、「奴隷の平和」を選択するのか。自由と民主主義を奪われ、人間の尊厳も踏みにじられてよいのか。チベットやウイグルを侵略・支配した中国共産党政府のチベット人・ウイグル人弾圧や搾取を見るがいい。

 日本は他国同様、平和国家を目指している。しかし、国連憲章の否定する侵略がなされたときは、憲章に基づき個別的自衛権で抵抗し、また集団的自衛権で共同して対応しようとしているのである。日本は集団的自衛権に依存しながら、相互に依存する国を助けないのでは、あまりにも利己的である。

 集団的自衛権が容認されても、日本には、多くの問題がある。例えば、兵力不足、縦深性のある兵員補充や防衛装備品生産態勢の不備、さらに民間防衛の欠如など、解決しなければならない事柄が山積している。

 これらを軌道に乗せることは、日本が侵略に対し命がけで戦うことを示すものであり、そこに初めて抑止という機能が出てくる。戦う気概と備えなくして国は守れない。国防は経済活動とは全く次元が異なる。我々日本人が忘れていたこと、これを国民とりわけ政治家が取り戻すことである。

(いぬい・いちう)