石垣島に豊かさ築いた人々
学ぶべき入植者の足跡
自助努力重ね「いい時代」に
先日、石垣島へ調査に行った際に、平久保(ひらくぼ)半島のある集落でSさん(83歳)から、60年前に入植した当時のお話を聞くことができた。
琉球政府の政策により、この地域に沖縄本島や宮古島から「移民」(当時は国内である石垣島や西表島への開拓移住も「移民」と呼んでいた)が始まったのは昭和30年。Sさんは沖縄本島の読谷村(よみたんそん)から、その年に入植準備のための設営隊として石垣島の平久保半島にやってきた。
まず、木材を切り出して家族が生活するための家屋を建てる。「家屋」といっても人力だけが頼りの「掘立小屋」である。同時に、唐芋(サツマイモ)を植え付けた。芋の収穫がある程度見込めるようになった翌年に家族を迎えに行き、妻と子ども3人を連れて入植地に戻った。
ところが、一時帰宅した読谷村でマラリアを発病。高熱にうなされ石垣への「移民」は断念するようにと琉球政府の役人からも言われてしまった。しかしSさんは諦めず、妻と7歳、5歳、2歳の子ども3人を連れて石垣島に戻った。
入植後10年間、食べたものはほとんどイモだけであった。しかも、家には竈(かまど)すらない。まるで野外キャンプのように、石を積んだだけの焚火で芋を煮るだけである。
あまりにも生活が苦しくて、石垣での開墾生活を諦め、地元の沖縄本島へ帰った人も少なくない。だが、「沖縄に帰るためのお金と、親戚の援助とか、地元でもなんとかやっていける目途が立つ」人たちだけが、帰ることができたとSさんは言う。Sさんには「帰る」という選択肢はなかったのである。入植地で最初に生まれた子どもは、交通手段も電話もないために医者に診せることができず病死させてしまった。
生活を少しでもよくするために、入植者たちが協力して「共同売店」を設立した。
「共同売店」とは基本的に地域の人々全員(全戸)が共同出資して設立・運営する地域商店である。しかし、現金収入がほとんどないこの地域では「商店」は成り立たない。実際に行っていたのは、家々が山から切り出した薪を共同売店が集め、それを道路が通っている隣部落まで約4キロの獣道を水牛で運び、そこからトラックで石垣の街まで売りに行くことである。
実際には「売る」のではなく、薪と生活必需品との物々交換であった。それを持ち帰って、注文のあった家に配分する。初代共同売店主任はSさんの義父。Sさんもその後を継いだが、いずれも無給であった。それでもSさんは「役割だから当然」だと言う。
何よりも過酷なのは台風であった。人力だけで建てた家は家財道具を含めて簡単に吹き飛ばされてしまう。それが年に何度もやって来て、必死な思いで蓄えたわずかな富が蓄積されることはない。台風に飛ばされない家を建てることができたのは、日本に復帰してからかなり経った昭和の終わり頃であり、生活が安定したと思えるようになったのは平成になってからである。
Sさんの弟はブラジルへ移民し、同じような苦労を重ねていたが、今では使用人が何十人といる大農場経営者である。数年前Sさんは弟を訪ねてブラジルへ行き、一月(ひとつき)ほど一緒に暮らしたという。
「ブラジルはいい所だよ。なにしろ台風も地震もない。頑張ったら頑張った分だけ蓄積されて豊かになっていく。本当は自分も若いころにブラジルに行きたかった」
それでも、石垣島で懸命に生きたことに後悔はしていない。5人の子どもと20人以上の孫や曾孫に恵まれ、「まさか、石垣がこんなに豊かになるとは夢にも思わなかった」と言う。
屈託のない爽やかな笑顔で「ほんとうにいい時代になった」と語るSさんの話を聞きながら、「戦後の豊かで平和な日本を創ってきたのはこの人たちなのだ」と改めて思った。
新空港ができた後の石垣島や周辺離島には多くの観光客が訪れ、今、何百台というレンタカーが石垣島を走っている。かつて、水牛で通った獣道も、平久保半島の先まで舗装されたきれいな道をレンタカーが通り抜ける。特別警報が出された今年の台風8号も家屋の被害はほとんどなかった。
現在の豊かさは、彼らの苦労の積み重ねとは関係なく、日本が豊かになったからこそ彼らもそれを享受できるようになっただけだと考える人もいるだろう。しかし、それは違うと私は思う。生きるか死ぬかのギリギリのところで自助努力をしてきた人たちが、日本各地隅々にまでいたからこそ、日本の発展があり日本は豊かさを実現できたのである。
今年も夏休みがやって来て、子どもたちが元気に走り回っている。その子どもたちのために私たちが彼らから引き継ぐべきことは何であろうか。私たちが忘れてしまった大切なこととは何であろうか。
世の中はますます世知辛くなってきているように私には思える。国内も海外も騒がしい。しかし、そんな時だからこそ、私たちは、生きることの意味、生活することの意味について、先人たちの足跡から学んでもいいのではないか。石垣の海を眺めながら私はそういうことを考えていた。
(みやぎ・よしひこ)