日露戦争と仏ユダヤ大富豪

佐藤 唯行獨協大学教授 佐藤 唯行

露仏同盟下で対日支援

渋沢栄一と出会ったカーン

 日露戦争中の1905年、パリの駐仏公使、本野一郎のもとをひとりの小柄な紳士が来訪した。紳士は日本政府が発行する公債を自分の人脈で売りさばいてやろうと申し出たのだ。

 紳士の名はアルベール・カーン(1860~1940)。一代で自前の投資銀行を設立したユダヤ大富豪だ。日本政府は戦費調達先として、既に米英の金融市場に働きかけを行ってきたが、フランスには期待していなかった。

 フランスはロシアとの間で露仏同盟という強固な政治・軍事上の協力協定を結んでおり、戦時にフランス金融市場でロシアの敵国日本が資金調達を行うことはまず無理だろうと諦めかけていたからだ。事実、ロシア公債の大半はフランス金融資本により購入されていたのである。そんなおり、在仏ユダヤ大富豪からの予期せぬ申し出に本野公使は小躍りして喜んだのであった。以後、両者は終生にわたり水魚の交わりを結ぶ間柄となる。

 カーンが仏金融界の主流に背いてまで日本の外債募集に応じた理由はユダヤ人を迫害する帝政ロシアをカーンが酷く憎んでいたからに他ならない。「敵の敵は味方」という論理で日本に肩入れしたわけだが、そればかりではない。7年前、自身の投資銀行、アルベール・カーン銀行を設立したものの、美味しい投資先は既に同業の老舗にとられてしまっていたからだ。老舗が見向きもしなかったハイリスクな新興市場(日本)に賭けざるをえなかったという理由もあるのだ。ここまでは在米ユダヤの大富豪ジェイコブ・シフがなぜ高橋是清に力を貸したのかという人口に膾炙した逸話とよく似ている。

 しかし、ロンドンで初めて日本人高橋是清(日銀副総裁)と出会い、高橋との面談の中で日本市場の有望性を確信したシフと異なり、カーンは日露開戦の8年も前、1896年に初来日し、投資対象先としての日本を実地検分した程の知日家だった。97年、2度目の訪日の際には日本産業界の将帥、渋沢栄一(1840~1931)の知遇を得て、飛鳥山の渋沢邸に招かれてもいる。生涯に及ぶ両者の親交がこの時から始まるのだ。1899年からは渋沢が設立した第一国立銀行の株に投資。

 他に台湾鉄道、京釜鉄道など日本の鉄道会社に積極的投資を行っている。カーンは日本市場に投資した外国人投資家の草わけ的存在だったのだ。

 幾多の企業設立に携わった傑物、渋沢との出会いを通じて日本人の優秀さ、日本市場の潜在的可能性を見抜いていたからこそ、今回の日本公債引受に応じたというわけだ。渋沢とカーンは単なるビジネスパートナーではなかった。互いに深い尊敬と信頼で結ばれた終生の友であったのだ。両者を結びつけた友情の基盤とは、農村で生まれ、時代の激変の中で経済界の大立者に登り詰めた共通の経歴だけではない。築いた富を惜し気なく社会に還元する博愛精神、文化事業の後援へと駆り立てた学問・芸術への深い造詣。さらにフランス語、フランス文化という共通の文化的背景の持ち主であったという点も重要だ。若き日の渋沢は徳川昭武に従い、パリ万博使節団の一員として、1867年から1年近く、フランス文化の洗礼を受けているのだ。

 日露戦争後、財政難に苦しむ日本政府が行った外債発行による資金調達にもカーンは協力している。この時は渋沢のみならず、大倉喜八郎、益田孝、浅野総一郎とも親交を結んでいる。

 日本の自治体、京都市が行ったインフラ整備のための資金調達にもカーンは協力している。1906年、京都市長西郷菊次郎(隆盛の息子)のイニシアチブのもと京都市議会は市と琵琶湖を結ぶ飲料水取水用水路の第2期着工計画を可決。必要とする1620万円を京都市はアルベール・カーンを通じ、フランス金融市場で起債したのだった。

 カーンのいまひとつの業績は日本文化の紹介者という役どころにあった。欧米でまがいものの日本趣味、ジャポニズムが流行すると、カーンは本物の日本文化の何たるかを紹介するために、日本人の宮大工や庭師を呼び寄せ、1910年、パリ近郊のブーローニュに広大かつ、本格的な日本庭園(今日でも一般公開されている)を完成させたのだ。

 庭園内には純日本式の家屋、茶室、石灯籠、太鼓橋などが設置されたが、それらは日本政府が寄贈したものであった。「日露戦争の恩人」カーンへの感謝の念を忘れてはいなかったのである。また1908年末から翌年1月にかけて、カーンが日本を訪れた際には官民あげての大歓迎がなされている。「日露戦争の恩人」としては在米ユダヤ大富豪のジェイコブ・シフや英国ロスチャイルド家の名が知られているが、フランスにもいたことを忘れてはならない。

(さとう・ただゆき)