同性愛に意見する欧米事情
他の人の自由と尊厳は
ヒルクルーバー氏論文から
欧米ではホモセクシャルについて論議する機会は誰にでも開かれている。これは主に少数派の保護の問題である。が、以下のボン大学教授クリスチャン・ヒルクルーバー博士の主張に注目したい――。
世の中では勝者が自らの勝利だけで満足せず、敗者に屈辱を与えようとすることは稀ではない。敗者は自己の敗北を認めるばかりか、間違いのために争ったこと、しかもその「誤謬(ごびゅう)」を誓って断念すべきとされるのだ。既に現在の西欧とアメリカでは、ホモセクシャルの「通常性」をめぐる論争では、前記の如き現象が見られるまでに至っている。
ホモセクシャルは、民主制では、自己貫徹力が弱い少数派と見做(みな)されているにもかかわらず、ドイツを含む西欧及びアメリカでは、有効なロビー活動の結果、ヘテロセクシャルの多数派とのほぼ完全な同権という目標到達に成功した。この政治的成功はほぼ完璧である。ホモセクシャルは今や西欧及びアメリカ社会ではほぼ完全に自由かつ平等であり、しかも「差別的不平等」の最後の残滓(ざんし)は、憲法裁判上の支援あるいはそれ以外の支援をもって、即座に取り払われる可能性が高い。
汚名と弾圧に対立し、性の自決的方向付けの基準に従った自由な発展のための正当な戦いとして始まったホモセクシャル(同性愛)の闘いは、その後、第三者の負担下に自ら自制も無く、(他者の)自由に敵対する傾向を示すようになった。正当な自由事項から、国家の命令と強制を伴った再教育の試みに転換する危険が台頭したのである。
つまり、ホモセクシャルのロビーにとっては顧客の発展の自由と言論の自由を獲得しただけでは十分ではなく、今や未だ反対意見を主張する少数派から、ホモセクシャルを依然として否定的に評価し、しかも第三者に対する自らの態度を自らの評価に向ける自由を奪おうとしている。この事実よりも問題なのは、裁判所が「差別反対」の旗の下に、このような自由に反する要求を容認し始めている事実である。例えば、イギリスで、あるホテル経営者が、宗教的根拠から、ホモセクシャルのペアにダブルベッド付きの部屋を提供しなかった。この経営者は、「差別」を理由として損害賠償の判決を受けた。しかも最高裁は、この経営者の態度を「人間の尊厳に対する侮辱」と見做したのだ。
今やホモセクシャル以外の人々も自由と尊厳を有しており、従って、自らの宗教的あるいは他に根拠づけられた良心に反してホモセクシャルの実践の余地を提供することを強いられてはならないと指摘する時期が既に到来している。この良心の自由は、人の心理的内面やプライバシーに限定されず、全行動を自らの道徳的・宗教的確信を指針とし、しかもその確信に則して公に行動する外的自由も包括している。一方の自由が他方の自由が始まるところで終わるとの言明が正しいとすれば、何人も自らの自由の実現を、その良心故にこれを望まない他者に請求して、入手することはできないのだ。
西側において、前記のホテル経営者の如く良心に基づく行動の自由の制限が実行される場合、ホモセクシャルの実践を不道徳と見做し、敢えてその考えを表明する者の自由は危険に晒(さら)されることになる。言論の自由に対する攻撃は、ホモセクシャル性向を依然として否定的に評価する者の全てを同性愛嫌悪者と表示し、しかも「集団的人類敵対性」のレッテルを張ることによって準備される。このためには如何なる言論の自由も請求することが許されないことは、ほぼ自明のこととなってしまう。しかし、まさに、ホモセクシャル事項においても、大多数の意見とは異なる見解を表明する、この自由こそが、守られなければならない。何故なら、自由とは何時でも他の考えを持つ者の自由でもあるからだ。
ホモセクシャルは、自らの性向に沿って生活することが当然の権利であるとしても、他の全ての人々もホモセクシャルの生活方式を良き生活と見做し、積極的に評価し、あるいは如何なる評価も行わないことを要求できない。ホモセクシャルは、自らの生活形態が他者によって異なって、つまり道徳的に否定的に評価される事実を受け入れなければならない。その事実は、ホモセクシャルの自由の行使を阻止するものではないし、否定的評価が個人的侮辱の性格をとらない限り、人間の尊厳を侵害するものでもない。反対にホモセクシャルの反対者は、その態度故に、厳しい批判を甘受しなければならない。これが民主制における対立的諸見解の相互関係を伴った精神的意見闘争の一形態なのだ。
基本権保護は、言わば少数派の保護である。保護を必要とする少数派は、永遠に少数派に留まるとは限らず、社会の展開とともに変わり得る。西側の社会では、既に現在、ホモセクシャル性向を道徳的に問題があり、その実践を嫌悪する人々の方がホモセクシャル集団よりも少数派となっている。この種の少数派も同様に尊重と保護を必要としている事実が忘れられてはならない。
(こばやし・ひろあき)
Christian Hillgruber,Wo bleibt die Freiheit der anderen?:FAZ Online vom20.2.2014参照。






