「コミュニケーション」に思う

加藤 隆名寄市立大学教授 加藤 隆

人物で教育の手本示せ

欧米流とは違う日本の風土

 コミュニケーション能力の向上ということを最近よく耳にする。とりわけ、児童生徒や若者に対して強く主張されている。学校教育での能力の向上の充実は言うに及ばず、昨今では企業が採用選考にあたって重視する項目の第一がコミュニケーション能力となっている。また、巷(ちまた)では同種の能力開発講座がさかんであり、広告には「親子のコミュニケーションが図れるグッズ」と銘打った商品が並んでいる。まさに、世間ではコミュニケーション能力啓発が活況を呈している。

 確かに、このような主張がなされる社会的背景がある。例えば、平成22年6月に政府が打ち出した成長戦略実行計画では、「このように、学力に関する各種の調査の結果により、我が国の子どもたちの思考力・判断力・表現力等には依然課題がある。また、課題発見・解決能力、論理的思考力、コミュニケーション能力や多様な観点から考察する能力などの育成・習得が求められている」と、その課題を指摘している。或いは、インターネットの普及により、子どもたちは気の合う限られた仲間とのみコミュニケーションをとる内向き傾向が見られること、企業では最近の新人が双方的な対話があまり得意ではない実態なども背景として考えられる。

 このように、児童生徒や若者の心配な実情や、益々グローバル化する時代背景を考えると、コミュニケーション能力の向上は時宜を得た流れにも思えるが、他方において、本当にそのことを真面(まとも)に信用していいのだろうかという疑問も起こるのだ。そのことを三つの視点から考えてみたい。

 第一は、コミュニケーション能力を脆弱(ぜいじゃく)にするようなことを学校も企業も家庭も連綿と続けてきたのではないかということである。内閣府調査によると、休日の過ごし方としてテレビゲームという割合が、小学生4~6年生の56・8%、中学生の46・8%である。通常に学校のある日でも、2時間~4時間という子どもがざらである。ゲーム偏重の生活スタイルが、対人関係を結ぶ上で困難を生じさせやすいという指摘は多くの識者の見解である。

 そして、テレビゲーム等の人気に呼応するように、関連企業のゲーム出荷規模は年々増加の一途をたどり、1兆円を遥かに超える成長産業になっている。つまり、企業側が子どもや若者のコミュニケーション能力を脆弱にするような製品を大量に世に送り出しながら、採用時には最近の新人は双方的な対話があまり得意ではないと批判しているようなものである。

 第二は、「コミュニケーション能力」という文言にしっかりとした内実があるかという疑念である。ある人は、グローバル化時代と結びつけて「コミュニケーション能力とは英語などの外国語を話せること」と理解するかもしれない。また、ある人は、身体感覚の乏しさという現代人の課題と結びつけて「コミュニケーション能力とは身体による表現を豊かにして他者と関わること」と理解するかもしれない。ちなみに、文部科学省は次のように定義している。「いろいろな価値観や背景をもつ人々による集団において、相互関係を深め、共感しながら人間関係やチームワークを形成し、正解のない課題や経験したことのない問題について、対話をして情報を共有し、自ら深く考え、相互に考えを伝え、深め合いつつ合意形成・課題解決する能力」だという。

 確かに「共感や人間関係」、「自ら深く考え、相互に考えを伝える」ことは重要な教育的目標ではあるが、これらは戦後一貫して学校教育が取り組んできたことであり、「これこそがコミュニケーション能力」などと看板替えをするほどのことでもないのだ。日本の社会には、このような気分転換の看板替え気風があまりにも多い。「生きる力」しかり、「新しい学力観」しかりである。そのような字句の解釈論が重要なのではなく、コミュニケーション能力の手本として日本にはこんな人物がいると提示できないことが問題の本質なのである。つまり、教育論に人物が見えないのだ。

 第三は、コミュニケーション能力育成議論の底流にある「開かれた個」や「自己の確立」というような欧米流の個人主義理解でいいのだろうかという疑問である。何かコミュニケーション能力の世界標準というものがあり、それは欧米流がモデルであるという認識ならば、大きな齟齬(そご)が生じるのではないだろうか。例えば、欧米人の多弁饒舌(じょうぜつ)気質と日本人のだんまり気質が比べられることが多いが、それは多分に文化や風土から培われたという側面がある。

 言葉とは、理性や法則を意味するロゴスであり神であると理解する文化と、ルース・ベネディクトが名著『菊と刀』で喝破した日本人の特性、つまり、「義理と恩」が人間関係の基本となる農耕社会的文化では、コミュニケーション能力の強調点も異なるのである。断定型の英語表現と、曖昧さを含むような日本語表現などの違いはその典型であろう。

 かつて、内村鑑三は「日本国の天職とは、東西両洋の“架け橋”になることだ」と語った。それは、コミュニケーション能力についても同様である。東西両洋のよさを理解しつつ、“架け橋的コミュニケーター”になりたいものである。

(かとう・たかし)