中国古典と近代日本西洋化

松本 健一麗澤大学教授・評論家 松本 健一

『老子』思想失った明治
戦争否定感情から遠ざかる

この十数年、中国古典を読み直すことが多くなっている。きっかけは何だったのだろうか。すぐには憶い出せない。
ただ、1997年(16年まえ)に『開国・維新』を書き下ろしたとき、維新と革命とがどう違うのかを中国古典にあたって辿り直したことがある。そのとき、革命が『易経』に「湯武命を革め、天に順って人に応ず」などとあるように、中国では易姓革命の思想がれんめんとして続いていたことを確かめた。そうして、維新が『詩経』に「周は旧邦なりといえども、その命維れ新たなり」などとあるように、日本では革命を起こさないように国家の命を維れ新たにする政体の改革をしていこうとしたのではないか、と思い至ったのである。

そういうことに気づくと、ふつう日本の思想や文化とおもわれていることでも、中国古典に根拠をもつのではないか、と考え直してみるくせがついた。たとえば、武田信玄・勝頼が編集を命じたとされる『甲陽軍鑑』の有名な「風林火山」も、そのもとは兵学の書『孫子』にあることに気づかざるをえなかった。『孫子』には、こうある。「その疾きこと風の如く、その徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、……動かざること山の如く……」と。

ところが、こんどはその『甲陽軍鑑』を読みすすめていくと、そこには武将の心得として、「民を使うには時をもってせよ」という言葉がでてくる。これは、聖徳太子の『十七条憲法』十六にある、「民を使うに時をもってするは、古き良き典なり。ゆえに、冬の月に間あらば、もって民を使うべし。春より秋に至るまでは、農桑の節なり(農の穀物生産や桑での養蚕の季節である)。民を使うべからず。それ農りせずば、何をか食らわん。桑とらずば何をか服ん」に由来しているのではないか。

いやいや、そうではない。その『十七条憲法』十六の条項の言葉も、もとはといえば『論語』学而第一にある、「千乗の国を道むるには、事を敬みて信あり。用を節して人を愛し、民を使うに時をもってす」などに依拠しているのではないか。

そういったさまざまな事例を思い浮かべるにつけ、日本の思想や文化を考察するには、どうしても、中国古典を改めて読み直す必要があると考えないわけにはいかなくなった。もちろんこういった思考は、わたしが43年まえに『若き北一輝』(1971年3月刊)で、北一輝をふくむ明治の社会主義者はマルクス、クロポトキンなどの西洋近代思想の影響よりまえに、『論語』季氏第十六にある「寡きを患えずして均しからざるを患え、貧しきを患えずして安らかざるを患う」という思想を前提としているのではないかと思っていたことの延長線上にあった。

しかし、中国古典を個別的に、日本の各事例に即して読み直すだけではだめで、大きく総体として捉え直すことをしないといけないのではないか。そう思うようになったのは、10年ほどまえのことだった。日本の近代化が西洋化として行われた明治維新において何が決定的に失われていったのか。より具体的にいえば、明治の天皇制国家の失敗の最たるものは天皇に軍隊の「統帥権」を与えたことだったのではないか。そしてそれは、中国古典にある軍隊や戦争に対する否定的感情から遠ざかるものだったのではないか、という思いからだった。

もちろん、現代中国において圧倒的な力をもっているのは、政治でも経済でもなく、軍事である。これは、現代中国が革命国家だからである。毛沢東は「革命は銃口から生まれる」といい、その思想にもとづいて現代中国を創出した。

だが、その現代の革命中国について批判する以前に、わたしたちは明治維新によって創り出された天皇制国家が、天皇に「統治大権」を付与するばかりでなく、「統帥権」を与えたことの問題性を改めて考え直してみなければならない。天皇に「統帥権」を与える『大日本帝国憲法』が作られたとき、憲法制定の顧問であったドイツ人は「すばらしい」と、これを言寿いだ。しかし、これが日本にとってどれほどの災禍をもたらしたかを、わたしたちは知っている。統帥権のもとに軍部が政府のコントロールを離れ暴走したのが、昭和戦前の歴史だった。

中国古典の兵学の書である『孫子』が、老荘思想の影響下に成立したことは、よく知られている。その『老子』には、次のようにあった。「兵は不祥の器にして、君子の器にあらず。已むをえずして之を用うるときは、恬淡を上と為し……」と。軍隊・武器は不吉の道具であって、君子の用うべきものではない、というのである。

この後の文章は、戦争に勝利をおさめたからといって喜んではならない、もし喜ぶとするなら、それは人を殺すことを楽しむことであり、天子はそんなことをしてはいけない、というのである。こういう『老子』の思想を、近代日本(の天皇制)はいつ失っていったのか。それを、わたしたちは改めて考えなければならない。

(まつもと・けんいち)