米国のネット傍受と国際法
慣習法化に自制が必要
対テロで国が私人をスパイ
国家の安全を目的として米国は世界の数百万(あるいは数千万?)の市民を監視している。これは国際法上の重大なエポック転換を意味していないだろうか。何故なら、これまでのスパイ活動は国家機密を対象としていても、人間の私的領域は原則的に対象としていないからである。国際連合だけが、五大常任理事国の合意に基づいて、この活動を停止させる権限を持つ。
国際法の大部分は慣習法から成り立っている。残念なことに、国際法は悪い慣習からも成立することが可能である。例えば米国は、あることを既に長期にわたって行ってきた事実を引き合いに出す。そのあることとは、他の諸国の法秩序の網目を縫って、テロリストを追及し、敵(テロリスト)を、例えば、無人機で殺戮してきたことである。具体的には被疑者を追跡し、拉致し、しかもこのために数百万の民間人のデーター収集を行っている事実である。
これは許されるだろうか。容易に回答することは難しい。
何故か? まず、実際に米国は遅くとも2001年9月11日以降の「対テロ戦争」以来、国際法を軽んじ始めている。国際裁判所や国際法専門家は、この超大国米国の慣習に成す術なく、しかも驚きの目で見守っている。米国のこのような攻撃的安全保障政策の対象となった諸国が、自らの法秩序をもって対応することも必ずしも有効ではない。何故なら、その大部分は同盟諸国であり、しかも秘密裏に米国と同盟諸国の情報諸機関の間に、その活動の成果(の一部)が共有されているからである。
しかも同盟諸国の対応は一様ではない。例えばドイツでは、プライバシーを侵害された私人が民事裁判所に訴え、最終的には連邦憲法裁判所での判決を求めることは可能だ。しかし、これには時間と行政府の負担が掛かり、政府はこれを好まない。これに対しイギリスとフランスの行政府は米国と同じではないにしても、類似的な行政府の行為が類推されている。
さらに欧州レベルでは、「データー集積法」の審議中に米国の国家安全保障局(NSA)の盗聴(傍受)問題が発生し、混乱している。確かに厳密に言えば、単なる国際慣習そのものだけが国際法を発生させるのではなく、これに「法的確信」が不可欠である。つまり、単なる「慣習」は必要条件ではあっても、充分条件ではない。従って、同盟諸国が米国のこれまでの単なる慣習を慣習法に発展させないつもりならば、その慣習に「法的確信」を付与させないための対応策を講ずる必要がある。具体的には「主権の侵害」で対応することも不可能ではない。
反対に、同盟諸国が米国の実践に対し、何の対応策も講じないで、米国を成すがままにさせておく場合、結局は米国の意図通り、長期的には傍受の国際法的慣習法が発生してしまう。しかし、その場合には、米国もこの慣習法に拘束され、残るは諸国間の技術合戦となってしまう。
なお、国際法は諸国に相互のスパイ活動に対しては極めて寛容な態度を示している。つまり原則的に国際法は、国家間のスパイ活動に関与していないのだ。
他国のスパイ活動は、日本を除いて、世界のほぼ全ての国で可罰行為とみなされている。国際法的にスパイ活動は原則的にゼロサムゲームである。日本を含めて全ての国が行っているスパイ行為は国際法的には中立的で法的重要性が極めて低い。かくして米国の政策責任者たちは、これまでの他国へのデジタル大攻撃を正当化するのである。従って、ドイツを含む欧州の同盟諸国は、米国の行為に対し、初めて聞いたようなふりをして驚きを示し、事を収め、深追いを避けようと試みる。
諸国のスパイ行為とは言っても、米国の現行スパイ行為は、古き良き時代の国際法が関知していたスパイ行為とは本質的に異なっている。その意味で、米国の総合的スパイ行為はある新たなトリックを裏づけとしている。重ねて言うならば、国際法が関知する国家のスパイ行為の対象は伝統的にあくまでも国家であり、原則的として私人ではない。私人のプライバシーまでも対象とする米国のNSAの行為は、ガイス・ポツダム大学国際法教授によれば、「これまで国際法が関知しなかった現象」であり、「伝統的スパイ行為と人間の国境横断的監視行為が合流する」全く新しい現象なのだ。
さらに伝統的スパイはスパイ行為が発見され、罰せられる危険に曝される。これに対しデジタル遠隔操作スパイは職業的リスクのない活動を行いえる。この現象は前掲のガイス教授によれば、国際法的大転換であり、「原則的に、これまで国際慣習法的に有効なスパイ行為に対する一般的許容が、このような新たな状況下では維持されえない」ことになる。「何故なら、プライバシーの保護は、国際法的に強固な基盤を有し、このような行為に狭い限定を付している」からである。
これに対し、NSA高官によれば、「何故、我々はシグナルの全てを捕捉することが許されないのか?」と問う。米国は、簡単に言うならば、完全なやり過ぎで、それ自体が「悪しき慣習」を示している。当面のところは比例適合性の原則を尊重する米国の自制が不可欠と考えられる。
(こばやし・ひろあき)