日本の安保政策転換とASEAN
問われる「安心」の提供
中国に「深刻な懸念」で一致
米国紙『ウォール・ストリート・ジャーナル』(2014年5月14日付)は、中国の海洋進出を題材にして、「海洋における中国の制止されざる権勢」と題された社説を掲載した。
この社説は、「中国指導部の一貫した姿勢は、ウラジーミル・プーチンのそれと同様に、領域に絡む報復主義が地球規模で盛り上がった業であることを鮮明に示している」という文言で締め括られている。そこには、中国の海洋進出の「現状」に対する強い危機意識が、表明されているといえよう。
米国のメディアの中に、こうした論調が拡張していくならば、それは、中国共産党政府にとって厄介な事態になるであろう。そのことが意味するのは、習近平(中国国家主席)統治下の中国が、もはやウラジーミル・プーチン(ロシア大統領)統治下のロシアと大差ない存在と受け止められ始めているということである。
そもそも、国連憲章第2条に記されているように、「武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、…慎まなければならない」とは、第2次世界大戦の惨禍を経た戦後国際社会の「常識」の一つである。ウクライナ政治危機に乗じたロシアのクリミア編入は、そうした「常識」を揺るがせるものであったし、中国は、そうしたロシアの動きを追いかけるように振る舞っている。
この段に至って、中国が対外的に展開してきた「宣伝」や「説得」の効果は、格段に落ちる。中国政府は従来、「平和的台頭」を標榜(ひょうぼう)してきたけれども、それが本当に「平和的」であるかの「説得性」には、疑念が示されるようになっているのである。これは、中国の対外姿勢における「代償」になろう。
事実、4月下旬、バラク・H・オバマ(米国大統領)のアジア歴訪以降、中国が南シナ海で特にヴェトナム、フィリピン両国との確執を激化させるに及んで、注目されたのは、ASEAN首脳会議での議論の帰趨(きすう)であった。会議初日の外相会合に際して、ASEAN諸国が一致した声明として「深刻な懸念」を表明したことの意義は、大きかった。
たとえば、カンボジアやラオス、ミャンマーのような国々が中国に気兼ねして一致した対応を採るのを阻む事態は、予想できたからである。ASEAN諸国は、対中姿勢の強弱はともかくとして、「一致結束」を演出できた。そのことは、一つの画期として評されるべきであろう。
中国政府は、ASEANが全体として対中傾斜を進めるのでなければ、それが内部分裂を来たしても構わないと考えているであろう。フィリピンやヴェトナムを怒らせてもカンボジアやラオスの首根っこを掴(つか)んでいれば、ASEANを分裂させながら影響力を行使することができる。それが中国政府の算段である。此度(このたび)、ASEAN諸国は、「一致結束」の成果を披露することによって、そうした中国政府の算段を砕いたのである。
しかも、首脳会合後の「ネピドー宣言」に続いて出された「議長声明」は、対中批判のトーンが強いものであった。「ネピドー宣言」では、対中批判のトーンが抑え気味であったにもかかわらず、「議長声明」では、「深刻な懸念」が表明された外相会合「共同宣言」のトーンに戻ったわけである。そこには、此度の会合に際して議長国であったミャンマーと中国の関係の「変化」が示唆されているのであろう。
ミャンマーは、欧米諸国から経済制裁を科せられていた軍事政権期には中国と密接な関係を保っていたけれども、軍政という一皮が剥ければ、ウィンストン・チャーチルの言葉にある「大英帝国とその連邦」の一部を成す国であったということか。
このように観ると、昨年、安倍晋三(内閣総理大臣)がASEAN加盟10カ国を一つも漏らすことなく訪問したことの意義は、確認するに値しよう。日本は、ASEANが全体として発展していくことを望んでいるのであって、特定の「都合の良い」国々だけを依怙贔屓(えこひいき)しているわけではない。
かくして、ASEANの「一致結束」は、日本の国益に合致する。折しも、日本では、「安保法制懇」報告書が提出され、集団的自衛権行使許容に向けた一歩が踏み出された。それは、戦後安全保障政策の「転換」と評されている。
しかし、そうした日本の安全保障政策の「転換」は、安倍が語った「もはやどの国も一国のみで平和を守ることはできない」という国際社会の現実の中で、どれだけ具体的な「安心」を同盟諸国や友好諸国に提供できるのか。
ASEAN諸国との関係は、日本の安全保障政策の「転換」が実際には何を意味するかを占う「試金石」になるであろう。
(敬称略)
(さくらだ・じゅん)