浅野総一郎とサミュエル商会
ユダヤの石油王と契約
湘南の貝殻がシェル商標に
ロシアとの戦いに備えねばならなかった明治中頃の日本。金本位制採用は急務の課題だった。国際金融市場で戦時公債を発行し、戦費を調達する際の前提条件だったからだ。1897年、金本位制採用にあたり、日本政府は正金の裏付けがある英ポンド、450万ポンドを調達せねばならなかったが、この時、起債を首尾良く成功させたのが英国ユダヤ人、マーカス・サミュエル(1853~1927)だった。「金本位制の恩人」と称せられるゆえんである。これより3年前の日清戦争では大陸派遣日本軍への軍需品輸送で日本を助けてくれた。この功により、戦後、清より割譲された台湾において、特産品、樟脳の出荷施設の経営権を日本政府から委ねられてもいる。
また先の功と合わせる形で彼は明治天皇より勲一等旭日大綬章を授けられたのだ。
ロンドン・ユダヤ商人の伜、サミュエルがビジネスチャンスを探し求め、アジア各地を遍歴した後、横浜に辿り着いたのは1876年のことであった。貝殻細工を施した漆器等、日本の工芸品を英国に輸出し、英国からは紡績機を輸入する初期日英貿易で主導的役割を果たしたのだ。
飛躍の契機は石油だった。欧米ではあらたな燃料、石油の時代が到来していたが、日本では照明用の菜種油、燃料用の炭、薪が依然として主流だったからだ。石油輸入は1892年以後、横浜サミュエル商会の主力事業となったのだ。その際、事業提携相手となったのが浅野財閥の創始者、浅野総一郎(1848~1930)であった。明治の中頃から後半にかけて「石油の浅野」は「セメントの浅野」に次ぐ重要な事業部門であったからだ。本業のセメントだけでなく日本石油産業史にも浅野の名は刻まれているのだ。
総一郎が浅野石油部を設立したのは94年10月のこと。その際、輸入契約を結んだのがサミュエル商会だったのだ。両者を仲介したのは明治産業界の将帥、渋沢栄一だ。渋沢は浅野が世に出る前からの後援者であり、在日・訪日ユダヤ人とのネットワークの持ち主だったからだ。因(ちな)みに1894年という年は業界首位のスタンダード石油が従来の間接販売をやめ、直営支店を横浜に開設した年だ。
サミュエル等の独立系輸入業者にとり看過できぬ緊急事態であった。しかもスタンダード石油は関東圏を営業エリアとする横浜支店のみならず、近畿圏を束ねる神戸支店、九州を統轄する長崎支店を矢継ぎ早に設置し、傘下におさめた日本の流通業者に自社の石油以外は扱わぬよう、誓約させていったのだ。当時、欧米の石油業界は採掘から精製、卸売り、小売りまで一貫して支配するメジャーと呼ばれる国際石油資本の覇権が確立されつつあった。
メジャーはスタンダード石油の社主、ロックフェラー家に代表されるように、民族的にはWASP系(英国出身のプロテスタント系白人)に牛耳られており、ユダヤ系を業界から締め出そうとしていたのだ。WASP系の支配が及ばなかった極東の小国にサミュエルが築いた事業はまさに風前の灯であったといえよう。
起死回生の一手としてサミュエルが編み出したのが、日本の新興財閥、浅野家との提携であったのだ。この提携はグローバルレベルで石油業を支配しようとするWASP系のロックフェラー家に対抗するユダヤ・日本の弱者連合の反撃と言ってよい。サミュエル商会はスタンダード石油と全く同じ場所に代理店を開設して対抗。浅野石油部も日本各地40カ所に系列の特約店を開拓。売り上げ目標を達成した特約店に報奨金を支払うことで忠誠心をつなぎとめていった。
スタンダード石油によるライバル潰しのお家芸、「値下げ攻勢」に負けぬためにサミュエルが考え出したビジネスモデルとは「カスピ海に面したバクーで産出された石油をタンカーに積み、河川、運河を遡航(そこう)して黒海に出る。更にスエズ運河経由で極東へ運ぶ」というものであった。これは英国ユダヤ人ならではの利点を活かした戦略だった。バクー油田は同じユダヤ系の仏ロスチャイルド家が支配しており協力が得られる。
また危険物積載船舶の航行には難色を示すスエズ運河会社は英国系企業であり、自国の有力市民サミュエルには便宜を図ってくれたからだ。中東産原油は1906年にイランで最初の油田が発見されるまで、注目されておらず、スタンダード石油が支配する北米油田へのアクセスは論外であった。それ故バクー油田への依存は当然の選択だったわけだ。彼がタンカーを最初に建造したという人口に膾炙(かいしゃ)した俗説は誤りだ。1878年頃、カスピ海で使用され始めたタンカーをスエズ運河会社が定めた厳格な安全基準をクリアした頑丈な油槽・船体に作り替えたのがサミュエルだったというのが真相だ。
これにより上記のビジネスモデルを実現できたというわけだ。サミュエル商会の石油事業は後にシェル石油として独立。日本では昭和シェル石油株式会社として営業している。貝の形をした同社の商標は若き日のサミュエルが貝殻細工の工芸品を作るために湘南の浜辺で買い集めた貝殻に因んだものだったのだ。
(さとう・ただゆき)






