『言志四録』で老いを豊かに

根本 和雄メンタルヘルスカウンセラー 根本 和雄

節度にある養生の工夫

佐藤一斎の随想録と死生観

 古くより、〝日本に『言志四録』あり、中国に『菜根譚(たん)』あり〟と云われるように、我国の代表的な「人生訓」(養生訓)の書、それが『言志四録』である。江戸時代の儒学者・佐藤一斎(1772~1859)の後半生の四十余年にわたる随想録が「言志四録」で『言志録』・『言志後録』・『言志晩録』・言志耋(てつ)録』の四書の総称で、「言志」とは〝志を述べた言葉をとどめ残すもの〟という意味である。

 その『言志録』に、〝人は少壮(しょうそう)の時に方(あた)りて、惜(せき)陰(えん)を知らず。知ると雖(いえど)も、太(はなは)だ惜しむに至らず。故に人の学を為(おさ)むるには、須(すべか)らく時に及びて立志勉励するを要すべし。〟(一二三)と述べて光陰を惜しむことを諭している。これは、中国宋代の朱熹(しゅき)(1130~1200)の〝少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んず可(べ)からず〟の如くに、また詩人・陶淵明(365~427)の〝盛年重ねて来たらず、一日再び晨(しん)なり難し〟の心境に他ならない思いである。

 かくの如くに、晩年になって始めて荏苒(じんぜん)と過ぎ去る日々を悔いる思いが募るのみである。

 確かに、『菜根譚』にも、〝人生は只(た)だ百年のみ、此の日最も過ぎ易(やす)し。〟(前集・一〇七)と述べて、〝故に末路晩年は、君子更に宜(よろ)しく精神百倍すべし〟(前集・一九六)と晩年の人生の生き方を語っている。更に、それぞれに 少・壮・老の心得について〝少者は少に狃(な)るる勿(なか)れ、壮者は壮に任ずること勿れ、老者は老を頼むこと勿れ〟と語っている(「言志耋録」・三三二)。つまり、「若い者はいつまでも若いと思ってはいけないし、壮年は元気旺盛にまかせて無理をせず、老年は老いを理由に依頼心を起こしてはいけない」という。

 さて、老いを豊かに生きる「養生訓」にこう述べている。

 〝老人の自ら養うに四件有り。曰く和易(わい)、自然、逍遥(しょうよう)、流動、是(こ)れなり。もろもろ激烈の事、皆害有り〟(「言志耋録」・三〇八)と。即ち、「老いの養生には次の四つが大事である。一、気持ちを穏やかにすること。二、自然のままにして焦らないこと。三、ゆったりと落ちついていること。四、物事に拘(こだ)わらないこと。」であるという。

 また、〝心身は一なり、心を養うは澹泊(たんぱく)に在り。身を養うも亦(また)然り、心を養うは寡欲(かよく)に在り。身を養うも亦然り〟(同・三一五)と。その意は、「心と体は一つであるから、心を養うときは、何ごともあっさりとして物事に執着しないようにし、体を養うときも同じく、また、心を養うときは欲望を少なくし、体を養うときも同じようにするがよい」という。

 こう述べた後で、〝凡(およ)そ事は度を過す可からず。人道固(もと)より然り。即ち此れも亦養生なり(同・三一八)〟と。つまり、「すべて何事においても、節度を守って度を過すことのないように、人間が行うべき道についても同じでこれもまた養生である」と語っている。

 つまり〝養生の工夫は、節の一字に在り〟(「言志晩録」・二八〇)と述べて、節(節度・適度)をよく守ることが養生の要諦であるという。加えて、〝養生の訣(けつ)も亦一箇の敬に帰す〟(「言志耋録」・二八七)と述べ、自分の言動を慎み、他人を尊敬することが養生の要訣であると。なかでも、〝心志を養うは養の最なり〟(同・二九五)とあるように、精神を修養することは、養生のなかでもすぐれた最上のものであるという。そして、〝養生の道は、只だ自然に従うを得たりと為(な)す〟(「言志後録」・四二)と。

 次に、一斎の「死生観」について考えてみよう。人に死生のあるは、天に昼夜があるのと同じであるとして〝死生を視ること、真に昼夜の如く、念を著(つ)くる所無し〟(「言志録」・一三三)と述べて、死生は昼夜の如しという。更に、〝呼吸は是れ一時の死生なり、只だ是れ尋常の事のみ〟(「言志耋録」・三三七)と。即ち、「吸う息と吐く息とは一時の生と死であって、これは、日常の事である」という。この道理は・〝海水を器に斟(く)み、器水を海に飜(かえ)せば、死生は直ちに眼前に在り〟(「言志晩録」・二九〇)の如くに「海水を器に汲みとり、その器の海水を海に返せば、死生の道理はすぐに目の前で了解できる」と述べている。

 佐藤一斎の生涯は、当時(安政6・1859年)88歳まで養生して天寿を全うしていることを思うと、まさしく〝極老の人は一死睡(ねむ)るが如し〟(「言志耋録」・三三六)という他はないのである。

 このように、佐藤一斎の「死生観」は、物には栄えたり、枯れたりすることがあり、人間には生きられたり死んだりすることがあり、総て生々変化してやむことがない。

 これは一つの気が生じ満ちたのが生であり栄であり、一つの気が消え無くなったのが死であり枯であるという。即ち、そこには「死生一如」(死生一条)の立場から、死は一時的休息に他ならないと言う。故にそこには『荘子』の思想を見ることができよう。

 〝我を労するに生を以てし、我を佚(やす)んずるに老を以てし、我を息(いこ)わしむるに死を以てす〟

 おわりに『言志四録』を通して心に残ることは、常に学び続ける努力と忍耐を、そして死が明日訪れようとも悔いのないよう一日一日を大切に生きることではないかと切に思う。

(ねもと・かずお)