「平成版富国強兵」政策の行方

櫻田 淳東洋学園大学教授 櫻田 淳

「世界の中の日本」志向を

ド・ゴール流の政治に倣え

 発足後1年、安倍晋三内閣の対外政策展開は、「完璧」と評するに相応しいものであった。しかし、昨年末、安倍晋三(内閣総理大臣)が靖国神社参拝を決行して以降、その政権運営を取り巻く「空気」は、微妙なものに変わってきている。

 そもそも、安倍の政策志向は、「平成版富国強兵」政策と呼ぶことができるかもしれないけれども、その「平成版富国強兵」政策がどのような意図で進められているかは、適切に注視する必要がある。それには、多分、次に挙げる二つの意図が考えられる。

 第一に、日本の「敗戦国」としての境遇を受け容れつつ、現行国際秩序の「現状維持勢力」としての役割を広範に果たしていこうという意図である。吉田茂の言葉に従えば、「世界の中の日本」志向の意図と呼べるであろう。それは、戦後六十余年、日本が築いてきた様々な事績への肯定的な評価を裏付けにしている。

 第二に、日本の「敗戦国」としての境遇を汚辱と位置付け、それを雪(すす)ごうという意図である。それは、「民族主義」志向の意図と呼べるであろう。この志向に沿った思考では、「俺は戦後と寝なかった…」という三島由紀夫の慨嘆に暗示されるように、戦後という時代に対する眼差しは、総じて冷淡になる。

 「平成版富国強兵」政策の主な趣旨が、前者の「世界の中の日本」志向の意図のものであれば、それは、米国やインドだけではなくフィリピンやヴェトナムのような国々からも歓迎されるであろう。

 東シナ海ADIZ(防空識別圏)設定や南シナ海での同様な動きに示されるように、中国は西太平洋における「現状打破勢力」として登場しているところがあるので、それに抗するための態勢を築くことは、中国の対外拡張に脅威を感じている国々の期待に応えることでもある。

 そこには、日本だけの「都合」というよりも他国の「要請」があるのである。しかし、「平成版富国強兵」政策を裏付けるのが、後者の「民族主義」志向の意図であれば、これは、第2次世界大戦の「戦勝国」である米国や他の欧州諸国にとっては容認し難いものであろう。政権発足直後、安倍に示された内外からの懸念は、この「民族主義」志向の意図を強く持っているのではないかという疑念に因(よ)っている。

 安倍の政治姿勢における最たる不安は、この二つの意図のどちらが強く反映されているのかが曖昧であるということにある。

 加えて、籾井勝人(もみいかつと)(NHK会長)を含めて「安倍人事」の結果として登用された人々に、不用意な発言が続いている。「特定の左派系メディアが意図的に叩いている」という評もあるけれども、彼らは、兎に角、脇が甘い。

 籾井はともかくとして、長谷川三千子(埼玉大学名誉教授)、百田尚樹(作家)の両経営委員の言動からは、前に触れた「民族主義」性向が感じられる。そのことは、衛藤晟一(内閣総理大臣補佐官)についても同様である。

 無論、彼らは、安倍内閣の閣僚ではないけれども、彼らが「安倍総理に極めて近い人物」である事実によって、一つの疑念を生じさせる結果を招いている。要するに、「安倍の本音は、『民族主義』性向を満足させることにあるのであろう」という疑念である。

 安倍が、どれだけ「世界の中の日本」志向の意図を前面に出しても、それは彼の「身内」の発言で帳消しにされているのである。安倍本人よりも、「安倍応援団」を称する「民族主義」性向の強い人々の言動の方が、気を付けるべきものであると思われるし、後々の政権運営への障害を招きかねないものであろう。

 このように考えれば、安倍の政権運営の成否は、実は「自らを最も熱烈に支持する人々」の期待に距離を置く政策対応を採れるかということに掛かっていよう。実は、この類の政策対応が、政治家にとっては最も難しい。たとえば、1960年代、シャルル・ド・ゴール(当時、フランス大統領)がアルジェリア植民地の放棄を進めた折、それに頑強に抵抗したのは、政権発足当初はド・ゴールを最も熱烈に支持していた植民地在留層と国内右派層であったのである。

 彼らは、アルジェリア植民地の護持をド・ゴールに期待したけれども、ド・ゴールは、その期待に応えなかった。アルジェリア植民地の護持は、アジア・アフリカで植民地独立が続いた第2次世界大戦後の国際情勢には相容れる政策対応ではなかったのである。安倍もまた、ド・ゴールが手懸けた「政治の芸術」に倣うことができるかが、問われている。(敬称略)

(さくらだ・じゅん)