仏教キリスト教融合への道
世界平和の努力を通じ
教派超える称名や神秘体験
世界に22億余人のクリスチャン、4億人近い仏教徒がいるが、その内、仏教とキリスト教の融合を特に熱望し、その実現を自分のデスティニー(使命、天命)とするのは、日本人(または韓国人)のクリスチャンであろう。キリスト教的西洋文明にあこがれつつも自分の伝統、仏教的アイデンティティーに愛着を持つからである。私もその一人である。
仏教とキリスト教の融合は、各方面で道がつきつつある、と私は考えている。
第一は、称名(唱名)の道を通じてである。「南無阿弥陀仏」「南無妙法蓮華経」(唱題)「南無大師遍照金剛」(真言宗)などなじみ深い。これは声という、肉体的でありながら力強く神霊界に通ずるものを使う。だからすべての宗教に有用枢要である。
しかもその言葉は、長い救いの物語を要約したものである。アミダ如来の発願から極楽への救いまでのストーリー、万人が成仏する法華経の輝くストーリーなどが一語になって、唱える人の心身にしみわたる(口にくりかえすうちに魂にまでしみつく)。この作用に着目して私の先師小西導源(芳之助)は、恵心流(えしんりゅう)基督教(東大称名キリスト教)を開いた。恵心僧都源信が「南無阿弥陀仏と口にとなえさえすれば救われる」と教え始めたのに做(なら)い、「わが主エス・キリスト」(または「わが主エスよ」)と口にとなえさえすれば救われるという教えである。多くの東大生が、この単純極まる教えを信じてとなえた。この一語にエデンの蛇から十字架と復活までの長い物語が要約されている。これ仏教キリスト教の融合なり。最近は世界基督教統一神霊協会でも称名を始められたと聞く。かならずや大きな力になるであろう。
第二は、神秘的体験の道である。神秘的体験はすべての宗教に共通している。また、それは分別(理性)を超えて無差別の世界を実感するものであるから、教派的分断をやすやすと超えてしまう。谷口雅春(生長の家)の「万教帰一」も彼の神秘的体験から来たものである。
この体験は各宗教が求めており、その方法はさまざま(坐禅、断食など)であるが、結果は不思議に一致しており、自身の宇宙との合一、法悦、無差別の心境である。これは仏教キリスト教融合の一つの道である。現にカトリックの神父でも日本の坐禅堂に通っている方がある。
第三は、一神教の矛盾からの道である。一神教でもユダヤ教とイスラム教は唯一全能絶対の一神を説き、人間は悲喜いずれにせよ絶対服従するほかないとするから、矛盾はない。しかし、キリスト教の一神は唯一・全能かつ愛の神であると主張するので矛盾を生ずる。リスボンの大地震(1755年)、東日本大震災(2011年)で「愛の神」への信仰はゆるいだのである(「世界日報」2011年5月18日ビューポイント「愛の一神教は大津波に弱い」加藤参照)。ここに多神教的仏教(多数の愛の神―観音菩薩など―を持つ)を容れる余地がある。愛の神仏の多くを絶対神が統御すれば問題はない。
第四は科学との融和の道である。キリスト教は無神論の科学の敵であった。もっとも、科学はキリスト教と対決する緊張から発達したともいえる。しかし、科学に対して許容的な仏教にキリスト教も歩み寄ってよい。上は神仏から下は地獄の住人まで一続き(「十界」)の人間観など仏教に学ぶ余地は大きい。宇宙論も仏教の方がゆとりがある。世界の人びとはどんどん科学的になっているから、キ仏融合こそ科学との融和、宗教の説得力の増大への道である。私なども「大宇宙帰命教」という自然科学の宇宙観と矛盾しない(またキ仏両教とも矛盾しない)教えを微力ながら準備中である。
第五は、実際的に世界平和への努力の道である。UPFはめざましい成果でこの道を開いている。私もその線で、かつて冷戦の終結、共産主義の打倒に一役買ったことを生涯の誇りとしている。宗教的対立は平和をそこなう(自爆テロは宗教的信念に基づく)から、UPFが既成宗教のシンボル物(十字架など)の撤去さえ辞せない渾身の努力には、敬意を表せざるを得ない。
こうして道はいくつかついた。キリスト教仏教の全面融合へ進むのは可能である。それを阻む教派的(教団的)利害の大部分は「僧侶が食って行くため」の都合が根底である。それがいけないというのではない。僧侶も人間であるから食って行けなければいけない。しかし、過度であってはいけない。現ローマ法王が「質素」を主義とせられるのはまことにありがたいことである。禅寺において僧も信者も自ら作務(さむ)に励み「一日作らざれば一日食わず」を心がけられるのもまことにけっこうである。そうすれば、日々の勤労の中にそのまま救いの道があることを信ずる心学の信仰とも一致するであろう。先人を敬いつつ擱筆(かくひつ)。このころ2月5日は長崎殉教の日(1597年)なり。
二十六聖人祭の風の声
夏井いつき
(かとう・えいいち)