法を超えた日本の家庭家族

NPO法人修学院院長・アジア太平洋交流学会会長 久保田 信之

久保田 信之弊害ある戦後個人主義

自然や文化伝統とつながれ

 西欧近代の個人主義と合理主義を無批判に肯定したGHQ(連合軍総司令部)支配下の憲法および民法は、成立から60年以上たった現在、日本の伝統文化から大きく離反していたことに原因して、日本社会を支えるはずの秩序を破壊し、今まで経験したことがないほどに日本人の精神的安定を混乱させている。

 そもそも、明治新政府も、『不平等条約』を改正してもらうために、との「危機感・劣等感」に突き動かされて、西洋の近代思想を容認し、馴染みのない法体系を整えたのだ。

 当初から穂積八束(ほづみやつか)(1860~1912年)を代表とする思想家の一団は、「平等な権利を持つ個人」を前提とする欧米流の法体系と、日本の伝統的な家族道徳とは相容れないと主張して、『民法出デテ忠孝亡ブ』との警告を発して、「親族法、相続法」の制定に強く反対していたのだ。

 ところで、現行の「日本国憲法」とそれから派生する「民法」等にまつわる歴史も悲惨なものであったといえる。すなわち、昭和20年の敗戦とその後のGHQによる「異常に長く執拗な占領」によって、日本が主権を奪われていた間に、GHQ主導によって基本法が制定されてしまったのだ。これは、あきらかに国際法に違反した行為であった点だけは、是非とも留意する必要があると言いたい。

 第9条は「国権の発動たる戦争」を「永久にこれを放棄する」と1項に表記しており、この憲法を遵守する限り、世界の常識である交戦権を永久に放棄(同2項)した、世にも珍しい国とみなされ続けるのだ。

 また、第13条冒頭にいう「国民は、個人として尊重される」は、14条をみれば人種、信条、性別、社会的身分や門地などすべてのつながりを差別要因として排除(divide)するため、「個人」とは、もうつながりを外せない最後の存在となり、『神のごとく価値において優先する個』となってしまう。13条の「個人」は『神のごとき個として尊重される存在だ』として規定してあるのだ。

 家庭・家族・社会・国家は、自分の出生よりも先に存在し、そのお蔭様で生まれ、その継承者として育ったのが「私」なのだ、というのが我々が常識として理解しているところが、現行の法体系は、根本的に我々の常識とは合致しないものだ。

 60年以上が経過した今日でも、「私」という個人は、日本の長い歴史の中で形成された伝統・文化の中に生まれ育った。即ち「大いなる関わり合いの中で生を営んでいる」と実感している日本人の方が圧倒的に多いことは論を待つまでもない。個人を、神のごとく正しく、自律的な自由意志をもった最小の単位とする思想の方が、日本人の常識では理解できないはずだ。

 我々のような自然崇拝の思想に慣れ親しんできた者にとっては、近代思想の最重要概念である「基本的人権」や「自由」さらには「平等」などが何を意味するのか、実感としてはよく分からないのではあるまいか。

 西洋近代思想やGHQ憲法を信仰する「神なし個人主義者」は、「国家・社会」さらには「家庭・家族」をさえ、この崇高な個人と個人が、「自由意志にのみ基づいて形成した人為的関係」であって、「神のごとき個」が合理的に形成した集団であるから、その主人公たる私にとって利益がありプラスであると評価できるならば、そこに所属していればよい、しかし、価値がないマイナスだと判定したならば、何の未練も感ずることなくその関係を解消して「神のごとき自由な個」をとりもどしたらよい、と声高に主張してきた。

 現在の法体系を良しとする「神なし個人主義者」は、夫婦別姓を唱え、家事育児、さらには老親の介護扶養を軽減化しようとした結果、いまや、離婚は増大し、結婚の意味が分からず晩婚化、少子化、さらには孤独死が増えている。

 最も運命的な親子関係は、幼少時期に限定した一時のものになってしまい、我が子が思春期に達するに伴い親子の会話、心の通いは稀薄になってしまう。このため、言葉使いは乱れ、静かに多面的に考察する方法も力もない日本人が増えてきた。日本の社会は混乱しているのだ。無責任なわがまま者を制御できないだけでなく逆に増長させているし、離婚や浮気を奨励して、婚外子、非嫡出子を世に送り出し、さらには老親を孤独死に追いやっているのも、日本文化に合致しない現在の法体系のなせるところなのだ。

 しかし、法体系がどうあろうが、日本人は己に打ち克つ己を大事にしてきたという伝統がある。論語から引用した「克己服礼」や、聖徳太子の「背私向公」、さらには夏目漱石の「則天去私」も「小我を棄てて大我に至る」努力こそ日本的個人主義の真髄なのだ。

 もちろん、日本の法体系を、歴史の連続である現実の生活に合致させることは望ましい。その実現に努力することを否定はしない。がしかし、法律が入り込めないのが、家庭・家族の本質であろう。法律を超越した、穏やかで、円満な生活を、一人一人が真剣に誠実に求め続ける努力を怠ってはならない。

(くぼた・のぶゆき)