明治海軍のユダヤ製殊勲艦

佐藤 唯行獨協大学教授 佐藤 唯行

日清・日露戦争で戦果

勝利を助けた英ヤーロー社

 未曽有の国難、日露戦争に際し、米英独のユダヤ系金融資本が戦費調達に苦しむ日本政府に援助の手を差し伸べてくれた逸話は良く知られている。しかし、戦場で日本軍が使用した最新兵器という点でも、在英ユダヤ系軍需メーカーが納入した武器が日本の大勝を助けているのだ。知られざる秘話を紹介しよう。

 日露戦争の天王山、日本海海戦の帰趨を制したのは僅か30分程の我が主力艦隊による砲撃であった。だが手負いのロシア艦隊を高速で追跡し、撃沈あるいは降伏させた駆逐艦隊の働きも見事であった。ウラジオストック入港を許せばロシア側に反撃のチャンスを与えてしまうからだ。

 最大の手柄をあげたのはバルチック艦隊司令長官ロジェストウェンスキー中将座乗の露駆逐艦ベドウイを追い詰め、鬱陵島の西で捕獲した「漣(さざなみ)」だろう。両艦の排水量はともに300㌧台、兵装も同じ。けれど建造年で3年も古い「漣」の方が速力では5ノットも優っていたのだ。この他に、第二駆逐隊を編成した「雷(いかずち)」「電(いなずま)」「曙(あけぼの)」「朧(おぼろ)」の4隻は6200㌧級の露装甲巡洋艦ドンスコイを撃沈する上で功があった。以上5隻の日本駆逐艦には共通点があった。当時、高速小型艦艇の建造では世界のトップをゆく、英ヤーロー社が納入したという点だ。

 創業社主アルフレッド・ヤーロー(1843~1932)は母方の血脈を通じ、英大宰相ディズレーリとも縁つづきのユダヤの名門だ。発明の才は幼少期に遡る。ユダヤ教の安息日を祝うために点す蝋燭の火を自動的に消す装置を篤信の叔母のために作りあげたのだ。安息日が始まると一切の労働は禁じられる。蝋燭を消す動作も労働と解釈されるのでヤーロー少年はこの仕掛けを考案したのだ。10歳に満たぬ子供とは思えぬ発想力だ。

 技術屋ヤーローの人生は26歳から始めた高速小型艦艇の開発・建造に捧げられたと言っても過言ではない。四つの水管式ボイラーの排気を4本煙突から排出するヤーロー式のスタイルは1902年、日本海軍が初の国産駆逐艦製造に踏み切った際、お手本として採用されている。そうして出来た「春雨(はるさめ)」級はヤーロー社製と比べ2ノットも遅い29ノットしか出せなかった。彼我の技術水準はまだまだ大きかったのだ。

 ヤーロー社製の艦艇は日清戦争でも大活躍している。その代表は1888年、日本海軍が購入した水雷艇「小鷹」だ。魚雷発射管は通常の2倍、4門を装備し、エンジンの周囲には厚さ2・5㌢の鉄板を張りめぐらし、排水量も203㌧。キングサイズの画期的な装甲水雷艇だ。この装甲は1895年2月の「威海衛夜襲」でいかんなく威力を発揮した。「小鷹」は2隻の僚艇(内1隻もヤーロー社製)を率い、清国北洋海軍の本拠地、威海衛になぐり込みをかけ、巡洋艦「威遠」と砲艦「宝筏」を轟沈。巡洋艦「来遠」を転覆させる大戦果をあげたのだ。この戦果は清国側の厭戦気分を高め、戦争終結を早めたと言われる。

 「威海衛夜襲」は世界の海戦史上、水雷艇隊が大戦果をあげた初のモデル・ケースという歴史的評価が与えられている。更にこの成功に自信を強めた日本海軍が肉迫して夜襲を行う捨て身の水雷戦法に太平洋戦争期までこだわり続ける出発点となったのだ。

 ヤーロー社は水雷艇・駆逐艦の建造に特化した軍艦メーカーだ。一方、戦艦・巡洋艦等の大型艦建造はアームストロング社、ヴィッカース社等のWASP系(英国白人プロテスタントの略)の老舗メーカーがこれを握り、新興のユダヤ系は小型艦艇の建造に特化せざるを得なかったという訳だ。これは独占資本確立期(1900年頃)の英米経済に共通してみられる現象だ。旨味のある基幹業種は先発のWASP系が掌握しているため英米経済の檜舞台に遅れて登場したユダヤ移民企業家は周辺的な隙間業種に活路を見出すという図式だ。

 しかし、独占への移行期、1870年代に遡ればユダヤ系企業でも「戦艦」を受注できるチャンスはあった。日本海軍初の戦艦「扶桑」(3700㌧)の建造を1876年に依頼された英サミューダ・ブラザーズ社だ。同社は1864年、数千人の労働者を擁し、内燃機関を動力源とし、旋回砲塔を搭載した最初期の装甲艦「アルバート公爵号」を建造した実績を持つメーカーだ。「扶桑」は日本海軍が保有した「最大の新鋭艦」であったが、英国海軍最大級の戦艦と比較すると排水量は3分の1、主砲を側舷に固定した旧式のタイプで「新鋭戦艦」とは名ばかりのものであった。

 それでも明治初期の日本としては精一杯の買い物だった。「扶桑」建造現場の督励とサミューダ社の技師団との打ち合わせをまかされたのが若き東郷平八郎であった。任務を全うするため造船所の近くに下宿を借り、2年近く暮らしている。1878年、「扶桑」は他の2隻と共に無事竣工。日本への回航を命じられたのは東郷以下12名の滞英海軍留学生たちであった。「軍神東郷」とユダヤ系軍艦メーカーとの意外な接点であった。

(さとう・ただゆき)