政治案件「靖国神社」の退場を
純然たる慰霊と鎮魂に
参拝のタイミングには疑問
昨年末、安倍晋三(内閣総理大臣)は、靖国神社参拝に踏み切った。参拝半月を経た時点での「読売新聞」世論調査の結果に拠れば、靖国参拝への評価は、「評価する」が45%、「評価しない」が47%と拮抗していた。
安倍の政権運営を支持する層の中でも、特に「民族主義」色の濃い層は、安倍の参拝に快哉(かいさい)を叫ぶ向きが支配的であったようである。しかし、筆者は、そうした向きには単純に同調できなかった。というのも、「何故、このタイミングで決行したのであろう…」というのが、筆者の率直な感想であったからである。筆者にとっては、日米同盟を含めて安全保障政策の遂行に「負の影響」が出ないということが、この件の評価の基準である。
少なくとも、今までは、「極東情勢の膠着(こうちゃく)は、中韓両国の『非妥協的、挑発的な姿勢』に因る。日本は終始、自制的に対応してきた」という論理構成で、日本は、中韓両国との「摩擦」の意味を説明してきたはずである。今後、こうした論理構成による説明は、難しくなるであろうということが、懸念された。
靖国参拝それ自体は、確かに、「挑発的な一手」であろうからである。実際、参拝直後、在日米国大使館、米国国務省が相次いで表明した「失望」は、「極東情勢に無用の紛糾を生じさせたくない」というバラク・H・オバマ政権下の米国政府の思惑を反映するものであったけれども、そうした「懸念」の証拠となったのである。
もっとも、日米関係の展開に照らせば、安倍は、在沖米軍普天間基地の辺野古移設に目処が付き、集団的自衛権行使の件が片付きつつあるとすれば、靖国参拝それ自体は、日米同盟の「紛糾」要因にならないと判断したかもしれない。「具体的に米国と協働できる日本」の登場それ自体は、米国にとっては歓迎すべきものには違いない。中韓両国との関係上は、ハードルは既に下がっていたので、その辺りの配慮はしなくてもいいという判断も、働いたであろう。
そもそも、靖国神社参拝それ自体は、政治上の喧騒から離れて然るべき「純然たる慰霊と鎮魂の行為」である。故に、本来、靖国の案件は、政治イシューとしては退場させる必要がある。問われるのは、その「退場」の手順である。
もし、「特に中韓両国が、どれだけ反対しようとも、日本の政治指導者は靖国に参拝するものである」という「常識」が定着すれば、靖国は、政治イシューとしては終わった話になる。安倍以後、三代続けて日本の宰相が参拝に踏み切るということになれば、そういう「常識」は出来上がってくる。
前に触れた米国の「失望」にもかかわらず、極東情勢の緊張を主に高めているのが実は中国や韓国の事情に因るという説明が勢いを持つようになれば、靖国参拝という行為それ自体の「負の印象」は、相当な程度まで減殺される。
特に中韓両国にとっては、靖国参拝批判は、対日牽制(けんせい)のための「手軽な方便」に過ぎない。中韓両国は、対日牽制の趣旨に沿うならば、靖国参拝批判の他にも、「手軽な方便」をいろいろと見出し、それを使おうとするのであろう。そうした理解を世界各国に説明し、受け容れさせる努力こそが、肝要であろう。
加えて、今年1年、日米同盟の「深化」を図る作業の中で、「もし、米国を含む同盟国の兵士が日本救援の最中に落命するようなことがあれば、日本人は、彼を英霊として靖国に祀(まつ)り、永く崇敬し続けることになる」と説明し、その説明に米国政府が納得するようなことがあれば、靖国の案件は、急転直下、落着する。
靖国神社は、日本の「排外主義」の象徴のように誤解されているのが、そもそも問題の根源である。「同盟国にも開かれた神社」と位置づけなおせば、この件は多分、終わりである。靖国参拝にかかる「常態化」と「国際化」こそは、靖国神社を政治イシューとして退場させる方針になるであろう。
ただし、この方針は、米国政府が抱く「極東情勢に無用の紛糾を生じさせたくない」という前述の思惑に充分な配慮をしつつ、細心に進められる必要があろう。筆者は、率直に言えば、安倍の「今年の参拝」は、「あるのかないのか」を曖昧にする姿勢に徹していいのであろうと思っている。
その一方では、「極東情勢の緊張を高めているのは誰か」ということに係る海外世論の喚起に精力を傾注すべきであろう。中国政府は、安倍の靖国参拝を奇貨として、日本の国際世論上の「消耗戦」に引きずり込もうとしているとの観測もある。「他人の土俵」で相撲を取る愚を犯してはなるまい。
(敬称略)
(さくらだ・じゅん)