現代社会が抱える「故郷喪失」


名寄市立大学教授 加藤 隆

東京一極集中で地方疲弊
根源の「存在」見失った現代人

加藤 隆

名寄市立大学教授 加藤 隆

 東日本大震災が起きてから数カ月が経ったころ、世界的テノール歌手が日本のステージに立って、唱歌「ふるさと」を情感豊かに歌っているのを目にした。少したどたどしい日本語ではあったが、世代を超えて多くの観客が涙を流していた。唱歌「ふるさと」には、懐かしく美しい故郷をありありと思い起こさせてくれる不思議な力がある。このように、心の拠(よ)り所のような我々の故郷ではあるが、実際には多くの日本人は故郷を離れ、いわば異郷に向かったのも事実なのである。

震災による強制離郷も

 1950年代から60年代にかけて、中学を卒業した多くの子どもたちが東北や山陰、九州や北海道から集団就職で大都市に向かった。ちょうど高度経済成長期と重なる時期であり、集団就職専用列車だけで年に3000本という事実だけでも、大変革の只中(ただなか)にあった社会のダイナミズムを垣間見せてくれる。その後、学歴志向の時代要請や高等教育の普及に伴って、大都市をめざす若者はさらに上昇していく。

 就職や進学で故郷を離れるという響きにはどこか希望を感じるが、やむなく強制的に故郷を後にした人々も多い。その典型は東日本大震災である。福島第1原発の事故で故郷を追われた人々は17万人に上る。そして、9年経った今でもなお3万人が福島県外で避難生活を送っている。さらに言えば、このような強制的な離郷は、日本のみならず多くの国が経験している。中東では戦火に追われ多くの難民が発生し、アフリカでは政治的経済的苦境から抜け出すためにヨーロッパを目指す人たちで溢(あふ)れている。こうして、「故郷喪失」は国の内外を問わず、現代社会が抱える深い問題なのである。

 ところで、自ら望んで故郷を離れたのか、やむなく離れたのかの違いは別にしても、結果として、我々は「故郷喪失」を目の当たりにしているのではないだろうか。そのことを二つの視点から考えてみたい。

 第一は、「山は青き故郷 水は清き故郷」と唱歌に描かれた故郷そのものの喪失である。東京一極集中の後の地方は疲弊している。北海道を例にとると、農業従事者の高齢化、後継者の不在、そして田畑を手放したことによる荒廃農地の拡大が深刻化している。それに加えて急激な人口減である。たとえば、最盛期には人口11万人を超えていた夕張は、基幹産業の衰退と人口の流出により、今では数千人の小さな市となっている。

 そして、北海道のみならず全国の至るところで顕著になっているのが、進行する過疎化と限界集落の増大である。そのような地域では高齢者が5割を超え、空き家が目立ち、若者や子どもたちの声は聞こえず、荒廃した土地が広がっている。もちろん、多くの自治体は町おこしや再生化に取り組んでいるが、我が国が進めてきた基本構造が変わらない限り、「山は青き故郷 水は清き故郷」は消滅を免れないのではないだろうか。

 第二は、人間の内なる故郷の喪失である。目の前にあまた立ち現れる存在物に目を奪われて、それを形あらしめた「存在」を喪失していることである。たとえば、部屋を見渡すとき、多くの物で囲まれていることに気づく。大画面のテレビがあり、高機能のパソコンや電化製品が置かれている。我々は対価を払って購入した自分の持ち物だと錯覚しているが、実際には、それらを無から有とした存在者がいたこと、つまり、ゼロから作り上げた製作者がいたこと忘却している。哲学者のハイデガーは、人間のこのような在りように警鐘を鳴らすのである。

「人間中心」から脱却を

 ――万物の根源である「存在」は、さまざまな「存在者」の姿をとって己を顕(あら)わにしながら、自らは「存在者」の陰に隠れてしまう。人間は、自分の周囲に現れるさまざまな存在者に眼を奪われて、根源の「存在」を見失って存在忘却に陥っている。こうして、人間は存在者の中心の座を占め、人間中心主義になり、存在者全体を支配し収奪する。その結果、人間の住まうべき「故郷」が失われる故郷喪失に至るのだ。――

 我々はこの世というフレームの中で、誰より優れているとか劣っていると評価し、どこの国と比べて生活が豊かだ、豊かでないと一喜一憂する。しかし、考えてみると、世界が存在している不思議さには気づいていない。まさに、ハイデガーの言う「存在忘却」こそが現代人の病ではないだろうか。「有」を生ぜしめた存在に目を向けるとき、それは「故郷喪失」の転換点になるのではないだろうか。

(かとう・たかし)