「LGBT」と表現の自由 バッシング恐れる出版界

「新潮45」休刊で覚悟の有無表面化

 「LGBT」(性的少数者)に関する特別企画を掲載した月刊誌「新潮45」10月号に批判が殺到したことから、発行所の新潮社が突如、同誌の休刊を決めたのは9月25日だった。出版活動をめぐって、月刊誌が休刊に追い込まれるというのは論壇における重大事態である。

 となれば、毎月26日発売の「WiLL」「Hanada」は時間的な問題から無理にしても、その他の月刊誌11月号には、言論の自由を守るべき雑誌が外部からの圧力によって休刊するという事態に切り込む論考が当然掲載されるだろう、と期待していたが、それがなかった。言論の自由を守ることへの覚悟と勇気が論壇から薄れ、LGBT支援活動家らによるバッシングを恐れてこのテーマをあえて避けたのか、と疑ってしまった。

 だが、昨日(10月26日)発売の「WiLL」と「Hanada」12月号は、それぞれ「メディアの自殺」「『新潮45』休刊と言論の自由」と題した特集を組んで、この問題を取り上げている。左派に支配されている言論空間に異議を唱え続ける保守論壇ならではの企画である。

 12月号の論考については、今後発売される、その他の月刊誌を含め、次回のこの欄で論評したいと思うが、自社発行の月刊誌を休刊にすることで、LGBT支援活動家らによるバッシングから逃げた新潮社の対応は明らかにお粗末だった。

 現在、社会に広がるLGBT支援の動きに対する評価は雑誌によってさまざまあっていい。しかし、論壇にありながら、もし今後も、「新潮45」に関する論考を掲載しないとすれば、編集者に言論に関わる者としての良識が疑われよう。やはり、バッシングを恐れているのか。

 新潮社は問題となった企画について「常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられた」とする声明を発表し、休刊についても「深い反省の思いを込めて決断した」と説明した。しかし、たとえ掲載した論考に批判を受けたとしても、その是非は誌上において論ずべきだった。雑誌を休刊にしたことはその責務の放棄であり、本当の理由は「反省」とは別のところにあったのだろう。

 つまり、出版不況の中、早急にバッシングを沈静化させなければ、会社の存続が脅かされるという経営上の判断である。見方を変えれば、左派色の濃いLGBT支援活動がそれだけ力を持ってきたとも言える。

 先に、月刊誌11月号に月刊誌休刊に関する論考がなかったと書いたが、文芸誌に掲載があった。新潮社の「新潮」だ。同誌編集長の矢野優は、問題となった「新潮45」の特別企画について「編集後記」で次のように書いた。

 文藝評論家の小川榮太郎が特別企画に掲載された論考「政治は『生きづらさ』という主観を救えない」の中で、LGBTと「痴漢症候群の男」を対比して、後者の「困苦こそ極めて根深かろう」と述べたことを挙げ、「これは言論の自由や意見の多様性に鑑みても、人間にとって変えられない属性に対する蔑視に満ち、認識不足としか言いようのない差別的表現だ」との認識を示している。

 また、「新潮」は作家の高橋源一郎の論考「『文藝評論家』小川榮太郎氏の全著作を読んでおれは泣いた」も掲載した。小川の論考について、高橋は「ハジケた」「いささか乱暴な文章」と表現する程度で、強い非難は避けた。その一方で、小川が自身の論考で使った「性的嗜好」という言葉は「指向」ではないかとし、「それ、LGBTについて書くならいちばんやってはいけない間違いじゃないのかなあ」と疑問を呈した。

 LGBTと痴漢症候群を比べた小川の論考を一読した時、筆者も正直、「これは攻撃される」と思った。「新潮45」休刊の発端となった杉田水脈(みお)(自民党衆院議員)の論文に対するバッシングでも浮き彫りになったように、LGBT支援活動家らは自分たちを批判する政治家・言論人を攻撃する材料探しに躍起になっており、揚げ足取りでも何でもやってくる。それに同調するメディアが多い中で、誤解を受けやすい表現をすると、そこを突かれ、論考で本当に伝えたいことが伝わらなくなる恐れがあるから、それは避けた方がいい。

 そうした問題はあったにしても、パターン化したLGBT支援論が強まる中、小川がマスコミによる同調圧力に屈することなく、性の問題を「人権」ではなく「人生的な主題」として認識すべきだと訴えた点では、筆者は評価する。

 実は、「嗜好」を使うか、それとも「属性」「指向」という言葉を使うか、というのはLGBTを論ずる場合、論者の視点をよく表すものだ。前者は、性欲についての人間の能動性に重きを置き、後者は本人の意思ではどうしようもないという意味を込め使っている場合が多い。筆者は、性の分化のメカニズムも絡む問題なので、後者を使ってもいい場合があると思っているが、現在の風潮を見る限り、性欲に対する能動性を棚上げにし、結果として、人間の尊厳を歪(ゆが)めてしてしまっているとしか思えないのである。

 人間が自身の性欲(性欲のない人がいるとしたらそれも含め)にどう向き合うのか。LGBT当事者の苦悩は、いわゆる「異性愛者」(異性に恋愛感情や性的欲求を持つ人と言われている)の葛藤と比べようがないほど深いであろうことは理解できる。しかし、たとえそうであったとしても、性欲に対する能動性を問わずして、どうして人間の尊厳が言えるのか。そのことを自覚し、現在の支援運動に同調しない当事者も少なくないはずである。

 また、性的行為については、人それぞれが倫理・道徳観を持ち、ある種の行為については、嫌悪感を持つ人が存在することも忘れてはなるまい。それは異性愛者間で行われる性的行為についても言えることだから、「LGBT差別」とはまったく違う次元の問題である。

 性的少数者の人権に視点を置いた論議のすべてを否定するわけではない。しかし、ある種の性的行為を「不道徳」と考える人、また支援活動に反対する人に対して「差別」「偏見」「認識不足」とのレッテル貼りとバッシングが行われているのが現状だ。それこそ内面・表現の自由を許さない抑圧社会ではないか。少なくとも出版・言論活動に関わる人間は、この状況を座視していてはなるまい。(敬称略)

 編集委員 森田 清策