日本でも「同性婚」? 先鋭化した性差否定

保守誌にも浅薄な賛成論

家族制度の破壊に繋がる渋谷区の条例

 ヨーロッパを中心に合法化する国が増えつつある「同性婚」がわが国でも国政レベルの課題に浮上してきた。自民党の馳浩・元文部科学副大臣らは、LGBT問題を考える超党派の議員連盟を先月発足させた。LGBTとは、レズやゲイの性的少数者のことで、当然同性婚も議論の対象となる。

 今月1日には、同性カップルに「結婚に相当する関係」と認めて「パートナーシップ証明書」を発行することを盛り込んだ東京都渋谷区の「同性婚」条例(正式名称「渋谷区男女平等及び多様性を尊重する社会を推進する条例」)が施行した。新聞各紙の論調をみると、同条例に明確な反対論を展開したのは弊紙だけ。朝日、毎日をはじめほとんどが評価している。保守派の産経は慎重論だった。

 パートナーシップ証明は、民法上の婚姻制度とは別の制度というのが区側の説明だ。しかし、これは区民からの抵抗をそらすための方便だろう。「結婚と相当する関係」と認める証明書を発行するというのだから、婚姻制度に準ずる位置づけというのが的確な解釈で、本質的には、男女に限定した婚姻制度を覆すに等しい条例とみていい。

 月刊誌に期待される役割の一つは、一般国民への影響の大きい新聞・テレビに対するチェック機能である。いわゆる「従軍慰安婦」や朝日新聞の誤報問題で、保守派を中心にした言論人に、論考発表の場を提供したことだ。

 同性婚の合法化に向けた第一歩として、社会の根幹を大きく揺さぶる可能性が高い条例について、新聞がこぞって支持派となる中、同性婚問題でも新聞に対する抑止機能を果すことが期待されるが、月刊誌5月号を見る限り、渋谷区の条例や同性婚をテーマにした論考は、意外に少ない。

 本格的な論考としては、麗澤大学教授の八木秀次が、家族・婚姻制度の形骸化を目指したものだとして、同条例に反対する立場から書いた「明治神宮が『同性婚の聖地』になる日」(「正論」)があるぐらいだ。題目の意味するところは、条例の内容からすれば、どんな宗教施設であっても、同性カップルの結婚式を拒否すると、社会的制裁が科せられるというのだ。

 このほかは、漫画家のいしかわじゅんが「WiLL」で、連載コラムで同条例を取り上げ(「LGBTは何を乱すのか」)、また「文藝春秋」の鼎談「安倍首相よ、正々堂々と憲法九条を改正せよ」の中で、東京都知事の舛添要一がわずかに同性婚に触れているだけだ。

 「WiLL」は「正論」と同じ保守派の月刊誌で、従軍慰安婦や朝日の誤報問題では、論調を同じくするが、八木とは反対に、いしかわじゅんは同性婚を認めても何も失うものはない、とする同性婚容認派。憲法改正との関連の中で、同性婚に言及した舛添も容認派だ。

 現段階でのことだが、伝統文化の継承という視点を大切にする保守派の言論人が同性婚について積極的な発言を行わないことには違和感を覚える。家族や結婚をテーマに言論活動を行うことは、自らの私生活に跳ね返ることだけに忌避する心理が働くのか。それとも、人権意識が極度に高まる時流の中で、性的少数者の人権を旗印にした同性婚に反対論を唱えることによって「非寛容」「反人権」のレッテルを貼られるリスクを恐れるからなのか。

 いずれにしても、これからの日本の社会のあり方を根本から変えてしまいかねないテーマについては、国民的な議論は不可欠である。にもかかわらず、八木のほかに、同条例がもたらす社会混乱に警鐘を鳴らす保守派の言論人がいないのは、気になるところだ。

 それはさておき、同性婚をめぐる問題で、真っ先に議論となるのは日本国憲法との整合性だ。同条例が可決される前から、メディアでたびたび指摘され、また八木も述べていることだが、憲法はその第24条第1項で「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有する」とし、また第2項では、家族に関する法律について「両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と規定する。

 このため、現行憲法下では、婚姻は男女に限定され、同性婚は認められていないというのが専門家の多数意見だ。ここでの「両性」は本人たちの意志という意味だから、同性婚を排除したものではないとの意見もあるが、それは少数派。とすれば、同条例は憲法に抵触する可能性が高いことになる。

 一方、慶應義塾大学名誉教授の小林節、国際政治学者の三浦瑠璃との鼎談の中で、舛添は、同条例に対する賛否は明確にしないながらも、ヨーロッパで同性婚を認める国が増えている現実を重くとらえ、結婚を男女に限定するのは「時代遅れ」としている。さらには、自民党の憲法改正草案が「家族、婚姻等に関する基本原則」を設けて、「家族は、互いに助け合わなければならない」としたことについて、「やたらと復古調の文言が並んでいて驚きました」と語っている。こうした文脈から、舛添は同性婚容認を視野に入れた憲法改正派だということが分かる。

 現行憲法の「婚姻は、両性の合意のみに基づいて」の「両性」を「当事者」に改めて同性婚を容認すべきだとの立場は、憲法は個人の権利を抑圧しないように国家権力を制限するものという立憲主義とも重なっている。しかし、絶対君主制の時代ならともかく、日本の民主主義は悪しきポピュリズムになりかけている。立憲主義にとらわれることなく、国民と国家は運命共同体であるとの考え方を基本に、強固な社会を築くため、憲法に家族条項を設けるべきだとの意見もある。その立場からすれば、結婚を男女に限定するのは「時代遅れ」とした舛添の主張こそが時代遅れということになる。

 「日本には、昔から武家の衆道というものがあった」とするいしかわと、海外の動きに歩調を合わせるべきだとする舛添の主張には、子供を生み育てるという婚姻制度の本質的な目的についての深い洞察を欠いた浅薄な主張だ。しかし、こうした二人の賛成理由は、多くの同性婚賛成派に共通するもので、「家」制度からの個人の解放を金科玉条にする半面、結婚の意義を軽視してきた戦後の左翼的風潮が感じられる。

 一方、まだ条例の成立前に書かれた八木の論考の特徴は、同性婚の背景に先鋭化した「ジェンダーフリー」があると喝破している点だ。男女の生物学的な違いを認めない極端な思想のため、論壇から排除されたジェンダーフリーだが、夫婦も同性カップルも同じであるとの主張は、性差否定の当然の帰結だろう。海外の時流に乗り同性婚という形で再び表に出てきたというわけだ。

 そこで思い出すのは、かつてジェンダーフリーでの子育てを奨励したパンフレット「未来を育てる基本のき」のことだ。女性団体が文部科学省嘱託で作製したものだったが、そこには男性カップルが並んで料理している絵が書いてあった。

 渋谷区側の説明では、アパートを借りることができない、あるいは入院しても家族でないとして面会が断られるなど、同性カップルに不利益があり、条例はそうした差別のない誰もが個人として尊重される社会の実現を目指すとしている。しかし、それは表向きの目的で、実際はそのような差別はほとんどないし、たとえあっても個別の問題として解決可能、と八木は指摘する。

 その上で、個別の小さな問題を大きな問題に仕立て上げ、「社会の原則自体を大きく変えようとするのは、このジェンダーフリー、同性婚推進を含む左翼運動の常套手段だ」と強調、その狙いは性的少数者の人権尊重を超えて、社会の根幹に関わる家族制度の破壊にある、というのが八木の分析だ。

 他の自治体でも、同じような条例制定の動きがあるのだから、日本の家族・婚姻制度は戦後70年の今、存続か崩壊かの瀬戸際に立っていると言えるだろう。(敬称略)

 編集委員 森田 清策