子供を生まない女性、口出しタブーの風潮

自由強調は未熟な精神性

 世の中、「ダイバーシティ」(多様性)が大流行である。日本では近年、多様な人材の積極登用など、企業活動の分野で多用されていた外来語だが、今は経済から教育・文化まで、幅広い分野で使われている。多様性を認めることは社会の成熟度の指標であるとして肯定的に受け止められている。

 東京都渋谷区は少数者を尊重する社会を築くとして、同性カップルに「結婚に相当する関係」(パートナーシップ)を認めて、証明書を発行することを盛り込んだ条例案を議会に提出した。ここでも一つのキーワードになっているのは多様性だ。

 だが、ここまでくると、ダイバーシティの暴走というほかない。多様性は両刃の剣のようなもので、組織のパフォーマンス向上に役立つこともあるが、無原則に認めていたら社会の秩序崩壊につながる。守るべき原則の最たるものは自然の摂理に反しないこと。人間で言えば、生物としての原則に従うことだろう。

 こう考えると、同性カップルを「夫婦」とすることは、ダイバーシティの許容範囲を超えた制度であることは明白で、渋谷区の条例が成立したあとの混乱は不可避である。

 「同性婚」と言わないまでも、原則を欠いた多様性礼賛がまき散らす弊害はすでに顕在化している。その一つは結婚や出産を忌避する風潮が強まっていることだ。これも生殖にまつわる人間の放縦。これを放置しておくことは、日本の未来を危うくすることだが、論壇には、女性の自己決定権だと肯定する論調はあっても、それを批判する論考はめったにお目にかからない。

 「女性よ、子供を生め」という言論人が少ない中、「SAPIO」4月号で、短い論考ながら小気味よい論述を展開し、生まない権利を擁護するリベラルな風潮に釘を刺しているのは評論家の金美齢(「子供を産まない自由を強調する女性はあまりに浅くて未熟だと思う」)。

 朝日新聞出版が発行する週刊誌「AERA」(15年2月16日号)が、国の少子化対策の影響で「出産・育児至上主義」に押しつぶされそうだと嘆く女性の声を紹介。「出産礼賛な空気が行き過ぎれば、“圧力”になることも忘れてはいけない」と、子供を望まない女性側に立った記事を掲載したことに対して、金は「もちろん個人の自由は尊重するが」と断りながら、「出産できる環境や状態にあるのに、『子どもいらない』と主張する女性は、人間としての責任を果たしていない」と、痛烈な批判を加えている。

 「AERA」の指摘する「出産礼賛な空気」が社会に強まっているとは思えないから、「子どもを産まない自由」が優遇されているのが現在の日本という金の分析に同意する言論人は少なくないだろう。しかし、「人間としての責任を果たしていない」とまで言い切るのには強い信念が必要である。

 その信念の裏付けなのだろう。ここからの金の問いかけは説得力がある。

 若い時は、自由を謳歌(おうか)していても、高齢になった時、介護を受けることになる可能性はだれにでもある。その際に自分の世話をしてくれるのは他の女性が苦労して生み育てた子供であるということをどう思うのか。「『子どもをいらない』という女性たちに聞いてみたい」と、金は問う。

 確かに、経済発展も福祉制度の維持も、女性たちが生む子供たちがいて初めて可能となるのは厳然たる事実。生みたくても生めない女性がいる一方で、生めるのに生まない女性が増えたなら、ライフスタイルに関する女性の自己決定だ、ダイバーシティ尊重の時代だなどと暢気(のんき)なことを言っておれなくなる。そして、金は「産まない権利ばかりを擁護していては、この地球上から人間がいなくなってしまう」と警鐘を鳴らす。

 この関連で言えば、結婚するもしないも自己決定と吹聴するのも大問題。現在、生涯未婚率(50歳時の未婚率)は男性2割、女性1割だが、15年後には男性3割、女性2割に増えると言われている。これは当然、子供の数の減少につながる。若い世代の貧困が結婚を難しくしている面もあるが、未婚者が増えているのは経済的な要因だけではない。

 「結婚を尻込みする人間は、戦場から逃亡する兵士と同じだ」

 こう語ったのは、「ジキル博士とハイド氏」で知られる英国の小説家ロバート・ルイス・スチーブンソン。戦後70年、平和が続く日本では、敵前逃亡する兵士はいようもないが、金の言うような「人間としての責任」から逃げる若者は確実に増えている。そんな意気地なしの尻をひっぱたく大人が少なくなったのも、ダイバーシティの大合唱にのみ込まれているからなのか。「おひとりさま」という言葉が流行(はや)る時代だからこそ、「若者よ、結婚し、子供を生め」と叱咤(しった)する言論人がもっと出てきてほしい。

 編集委員 森田 清策