顔のない寄付天使
韓国紙セゲイルボ・コラム「説往説来」
全州市老松洞(ノソンドン)には『顔のない天使の通り』がある。厳寒に見舞われた2000年冬の50万ウォンを手始めに今まで毎年、数千万ウォンを置いていった「名を知らぬ天使」の善行を称(たた)える通りだ。「あなたは闇の中のロウソクの灯のように世の中を明るく美しくする真の人間です。愛しています」。老松洞の住民センター前に建てられた『顔のない天使』の記念碑にはこんな文句が刻まれている。
顔のない天使は、いまだに誰なのか分からない。50~60代と推定されるのみだ。「○○クリーニング店の前に行ってください」と老松洞役場に電話がきて洞役場の職員がそこに行くと必ずブタの貯金箱が置かれている。彼が十数年間、現在まで置いていった金額は2億ウォンをはるかに超える。
ブタの貯金箱を置いていくことからみて平凡な人だろう。勤勉で節約しながら1年内々、貯金箱に少しずつ貯蓄することを楽しみにして暮らす人のようだ。洞役場の職員は「千ウォン札、五千ウォン札と、紙幣なら手当たり次第に貯金箱に詰め込んでいることから、その方がどんな暮らしをされているのか感じられる」と言っている。
寄付にはただし書きや条件はない。とはいえ、「分かち合う心」がなくてはできない。人助けになった心地よさは、寄付した人でないと分からない。「わずかな金額だけど、少しでも貧しい人たちのためになれば、うれしいです」。少し前にソウル駅前で救世軍の「慈善鍋」(日本では「社会鍋」)にお金を入れたある小学生の言葉だ。
寄付は相手に驚くべき変化を引き起こす。貧しい自分のことを心配してくれる人がいるという事実は大きな力になる。また、少しでも疎外され不遇な隣人の役に立てば、それ以上うれしいことはない。シェークスピアが「慈善という徳性は二重に祝福を受けるものであり、与える者と受ける者をともに祝福することなので、美徳の中でも最高の美徳」だと称賛した理由はここにあるのかもしれない。
顔のない寄付天使がもうひとり登場した。数日前、ソウル・明洞の芸術劇場前の慈善鍋に巨額の入った封筒を入れて消え去った。封筒の中には6800万ウォン相当の債券が入っていたという。昨年、一昨年にも慈善鍋に1億ウォンの小切手を寄付した人がいた。全国が寒波で凍(い)てついたが「暖かい冬」の予告編のようで、うれしい。
(12月16日付)