孝子洞住民の受難
ソウル市鍾路区の景福宮の西側にある孝子洞。2010年代になって清雲洞、社稷洞と共に“西村”として有名になった。孝子洞という名前は朝鮮王朝の宣祖王時代の文臣、趙瑗の子息、希信・希哲兄弟が孝行息子との評判が高まって“双孝子の谷”“孝谷”と呼ばれたことに由来しているという。王宮の外に住む出入番の宦官(内侍)の集団居住地なので“鼓子(生殖器官が不完全な男)洞”と呼ばれていたが、語感のいい孝子洞に変わったという異説もある。日帝支配の時代に景福宮の西や北の地域に日本人たちが多く住んだため、昔からの住民が清渓川に追いやられた心痛い歴史もある。
近所に青瓦台(大統領官邸)が建てられ、1970年~80年代に孝子洞の住民が経験した不便は並大抵ではなかった。景福宮の壁に沿った孝子路は大型トラックの進入が禁じられた。ゴミ収集車も入れず、住民がゴミを捨てようとすると区庁に申告して収集日を決めなければいけなかった。
家の改修許可をもらうために通常2、3年待たされ、温水ボイラーの取り替えも申告が必要で、担当者が立ち会った。電気釜でも買って持ち帰る際も、(地下鉄)景福宮駅からの何回も検問や手荷物検査を受けた。夜間通行禁止(82年まで午前0時から4時実施)の後も夜帰宅する高校生に武装軍人が銃口を向けた。門を開けっぱなしても泥棒の心配がないことが唯一の恵沢だったという。
ふとしたきっかけで青瓦台専属の理髪師となった主人公が経験した激動の現代史を描く映画『孝子洞の理髪師』。映画のナレーターのナガン(主人公の長男)は、自分が生まれた4・19革命(60年4月19日、李承晩大統領を辞任に追いやることになるソウルの大規模学生デモが起こった)当日について、「青瓦台に上っていくわが家の前には人々が大挙して押し寄せた」と語る。
しかし、(後の朴正煕大統領が主導した61年の)5・16クーデター以降、集会やデモは不可能となった。禁断の地域が五十数年ぶりに開放された契機はローソク集会だった。警察の集会禁止通告を裁判所が覆した結果、昨年11月26日の第5回集会から清雲・孝子洞の住民センターまでローソクデモが可能となった。
文在寅政府になって孝子洞で集会のない日は1日もない。過去3カ月間に約300件。拡声器の騒音に路上放尿、ゴミ投棄のため住民はひどい目に遭っている。我慢できない住民は先週、「我々の町を返せ」と抗議デモを行った。孝子洞の受難はいつ終わるのだろうか。
(8月21日付)