笠子帽


韓国紙セゲイルボ・コラム「説往説来」

 笠子帽(カッ)は韓国民族を代表するファッションだ。歴史が古い。(北朝鮮の)平安南道龍岡郡花上里にある7世紀の高句麗古墳、龕神塚の壁画「着笠騎馬人物図」には笠子帽をかぶった武士が弓を射る姿が描かれている。朝鮮時代の笠子帽とそっくりだ。笠子帽は高麗にも引き継がれた。首都・開京(今の開城)を訪れた宋の使臣、徐兢が高麗の風物を伝えた『高麗図経』には、大きな笠子帽をかぶって馬に乗る人が描かれている。その笠子帽は朝鮮500年の象徴物として定着する。平素は黒笠をかぶり、親族に不幸があると白笠をかぶった。戎服(軍服の一種)を着た武官は戦笠(毛皮で作られたつばの狭い笠)と朱笠(王に随行する際の朱塗りの笠)をかぶり、平民はペレンイ(竹で編んだ小さな笠)をかぶった。

 どうして笠子帽をかぶったのか。必要は創造の母というが、強い日差しと雨を避けるためにかぶり始めたはずだ。その用途が変わった。礼を尊んだ朝鮮の士大夫(両班=貴族のこと)は、何もかぶらず外に出ると下着姿で出歩くように感じたのだろうか。笠子帽は礼の象徴物となった。士大夫はなぜ笠子帽をかぶらなければならないのか疑問を抱いたようには思えない。女性はチマチョゴリ、男性はパジチョゴリを着るのを当然視したように。

 疑問に思った人物もいた。北京に行った朴趾源。そこで笠子帽をかぶっているのは朝鮮の使節団と仏教の僧侶だけだった。藤と棕櫚の木の皮で作った笠子帽をかぶったラマ教の僧侶たちは服装まで似ていた。こんなことを考えた。「仏教を尊んだ新羅時代に素人の家で中国の僧侶の服装をまねたのではないか。その服装が千年以上も変わらなかったのだろうか。冬にも笠子帽をかぶり、雪の中でも扇子を離さないのはお笑い種ではないか」。笠子帽さえ見過ごさない北学派(朝鮮後期に清に学ぶことを主張した実学派の一派)の学者の批判精神が光っている。

 朴趾源だけではない。北京で進んだ清の文物を見た実学派の巨頭、洪大容や朴齊家も同じだった。彼らは筆談と拙い中国語で清の学者を引きとめ質問を浴びせかけた。見聞は思考の幅を広め、思考は現実を変える。朝鮮の実学精神は見聞から始まった。

 資金援助を受けて海外に語学研修に出掛けた先生たち。年を取って頭がさび付いたのか知らないが、6カ月の研修を終えて帰りTOEIC試験を受けたら600点も取れない人が多かった。あまりにもひどい。もっとも税金で海外見学に行く議員たちは短い報告書をまる写しする世情ではなかったか。

 盎葉之誠という言葉がある。農業の傍らで感じたこと、考えたことを柿の葉に書いて甕に貯めておいた先人のように誠を尽くして見聞を広めるなら、どうして教員の権威が地に堕ち、政治家が後ろ指を指されるだろうか。 

(9月19日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。