司法の前に無力な国民


地球だより

 米連邦最高裁は先月、合衆国憲法には結婚について何も書かれていないにもかかわらず、同性婚を憲法上の権利と認め、全米50州で合法化させた。同性婚反対派が批判するように行き過ぎた「司法積極主義」の印象は否めない。米社会における最高裁の絶大な影響力を示す最新事例となった。

 影響力の大きさ故に、国民の最高裁に対する関心は極めて高い。政治に興味のある人なら、どの判事が保守派、リベラル派、中間派に属するか、知っていて当然、そんな感じだ。米国に赴任した当初、一般人が床屋談義で「○○大統領に指名された××判事は最悪だ」などと語り合うのを見た時は驚いた。日本で最高裁判事の名前や思想的傾向を言える人は一体どれだけいるだろうか。

 同性婚反対派は最高裁判決に憤ると同時に、無力感も感じているに違いない。31州が住民投票を経て州憲法を改正し、結婚を男女間のものと定義したにもかかわらず、司法判断で覆されてしまったからだ。住民投票で示された民意も、民主的手続きを経て改正された州憲法も、たった5人の最高裁多数派判事の前では全て無意味だったのである。オバマ大統領はじめ同性婚賛成派は判決を喜んだが、民主主義社会として健全な状態とはとても思えない。

 連邦判事は終身制で、自ら辞めるか、死去しない限り、その地位にとどまることができる。米国民には行き過ぎた司法に対して物を申す術(すべ)がないのが現状だ。

 これに対し、日本には最高裁裁判官の国民審査制度がある。司法への関心の低さからほとんど機能していない制度だが、主権者たる国民が無力な米国の状況を目の当たりにすると、せっかくの権利を有効に活用しなければならないと感じる。

(J)