64年ぶりの永眠


韓国紙セゲイルボ・コラム「説往説来

 娘は父の名誉のため闘士となった。生まれて初めて“1人デモ”まで行った。祖国のために献身した父にふさわしい礼遇をしてほしいという訴えだった。数日前、国立大田顕忠院に埋葬された韓国軍捕虜ソン・ドンシク二等中士と娘のソン・ミョンファさんの話だ。

 韓国動乱勃発の翌年(1951年)、捕虜となったソン中士は北朝鮮で厳しい辛苦をなめながら84年に死亡した。彼の遺骸は2013年、62年ぶりに故国に帰ってきた。ミョンファさんはじめ3人の娘が脱北した後、千辛万苦の末に遺骨送還に成功したのだ。

 しかし、本当の苦労はその時から始まった。国防部(部は省に相当)はDNA鑑定によって「国軍捕虜ソン・ドンシク」という事実を立証したにもかかわらず、捕虜にふさわしい補償と名誉回復を拒否した。「生きて帰還した捕虜は可能だが、死後帰還した捕虜に対しては規定がない」とおうむ返しに答えるだけだった。娘は我慢できずに父の遺骨が入っていた木箱を体にくくりつけて街頭に出た。青瓦台(大統領官邸)と国防部庁舎の前で雨や雪にさらされながら8カ月間デモを行った。父の遺骨は2年間、自宅のベランダに保管されていたという。

 娘のミョンファさんは「国軍捕虜のような方々がいたから今日の大韓民国があることを多くの人々が記憶にとどめてくださればと思います」と語った。彼らの名誉回復はまだ始まったばかりだ。8万人に上る国軍捕虜のうち故国に帰還した遺骸はわずか6人だけだ。確率でいえば1万分の1にもならない。大韓民国に命を捧(ささ)げた数多くの方々がそんな奇跡を待っている。

 世界最強の米国は軍人たちの犠牲を名誉として称(たた)える。北朝鮮(咸鏡南道)の長津湖で中共軍に包囲された米海兵は生死の境を行き来する吹雪の中でも戦死した同僚たちを埋葬して座標を緻密に記録した。必ず帰ってきてその死を記憶するという国家的な誓いだった。その約束は実現した。4年前、韓国動乱の戦死者1名の埋葬式が行われると、兵士の故郷であるウェストバージニア州はその全域で弔旗を掲げた。超強大国・米国の底力がにじみ出るような生々しい例話だ。

 64年ぶりに安息したソン中士の祖国は一つだった。彼は娘たちに「死んだら故国の大地に埋めてほしい」と言い残した。娘たちはその遺言を守ろうと父とは全く違う戦争をしなければならなかった。その日、埋葬式場の太極旗(韓国国旗)の下には「国家のための犠牲、永遠に忘れません」という文字が輝いていた。太極旗はその意味を知っているだろうか。

(7月7日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。