国民の殺生簿
韓国紙セゲイルボ・コラム「説往説来」
「首陽大君(スヤンテグン)(後の朝鮮第7代王・世祖)は兵士を3重に立て3重の門を造った。殺生簿を作った韓明澮は門の内側に座った。大臣たちが最初の門に入ってくると従う下人たちを引き離し、第2の門に入ってきてその名前が殺生簿に書かれていれば洪允成、具致寛などが鉄槌(てっつい)で殴り殺した。この時、皇甫仁(ファンボイン)が車に乗ってきたが、宗廟の前を過ぎても降りずに『おしまいだ、おしまいだ』とつぶやきながら舎人の手を握り、後事を託した」
『燃藜室記述』に出てくる1453年の癸酉”乱の記録だ。
幼い端宗(朝鮮第6代王)の後見である左議政・金宗瑞(キムジョンソ)を鉄槌で殺した首陽大君は景福宮を掌握しては、王命にかこつけて大臣たちを王宮に呼びつけた。殺生簿に従って工曹判書・鄭麟趾、参判・李季甸は生き残り、端宗を保護した領議政・皇甫仁、左賛成・李穰、右賛成・趙克寛たちは死んだ。「おしまい」とつぶやいた皇甫仁は何を考えていたのだろうか。
政権の主人が代わる政治の激変期や選挙の季節になると、間違いなく登場するのが殺生簿だ。古代ローマ帝国では殺生簿が政敵粛清の手段として使われた。紀元前82年、改革派との権力闘争に勝った元老院派の独裁官スッラは「国家の敵」という名前で反対派1600人余りの名簿をフォロ・ロマーノ広場に掲げた。殺生簿に載った政敵を殺せば賞金まで与えたというから、こんな非情な政治はない。
李明博前大統領が2002年、ソウル市長に当選した直後にも「ソウル市公務員殺生簿」論争があった。李前大統領は当時、ある参謀が選挙運動を手伝わない市公務員の名簿を持ってくると、見もしないまま大声で怒鳴りながら「首にしてしまえ」と言ったことが05年に明らかになった。02年、盧武鉉大統領の当選直後にも民主党の議員たちを大統領選挙への貢献度に従って特1等と1~3等の功臣、逆賊、逆賊の中の逆賊に分類した殺生簿によって党に激震が起こったことがある。
新政治民主連合の中道派議員15人が作った場外闘争反対連判状が政界に波紋を起こしている。彼らは強硬派ににらまれたはずだ。強硬派が党の実権を手中に収めると、まかり間違えば署名派の名簿が殺生簿になりかねないという話まで出回っている。しかし、多くの国民は署名派に拍手喝采だ。民心を読み取った政治家が愛されるのは当然だ。もし強硬派が署名派を思い知らせようとするなら、国民が作った殺生簿に名前が記される覚悟をすべきかもしれない。
(8月30日付)
※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。