「京平サッカー」復活?
韓国紙セゲイルボ・コラム「説往説来」
わが国にサッカーが伝わったのは1882年、高宗(コジョン)(朝鮮第26代王)の時代だ。済物浦港(今の仁川にあった港)に入港した英国軍艦フライング・フィッシュ号の乗組員たちが埠頭(ふとう)でボールを蹴った。珍しそうに見守っていた朝鮮の人々が、彼らが置いていったボールで、日が暮れて暗くなるまでサッカーをしたという記録が方々で残っている。
当時、朝鮮の男たちはサントゥ(まげ)に網巾(マンゴン)を頭に巻いて韓国服(バジ・チョゴリ)を着てサッカーを楽しんだ。ルールもろくに知らないまま、二組に分かれてゴールに向かってボールを蹴り合った。正確なルールを知ったのは宣教師たちがやって来るようになってからだ。
半島にサッカーブームを起こしたのは京平サッカーだ。平壌とソウル(当時、京城)で交互に行われるサッカーの試合は、ブームを起こすのに十分だった。サッカーが「大韓民国人の信仰」として定着するようになったのも、韓国サッカーがW杯で4強神話、海外16強の快挙を成し遂げたのも、遡れば京平サッカーの力が作用したといえる。
京平サッカーが始まったのは85年前。1929年、ソウルの徽文(フィムン)高等普通学校で行われた。当時の公式名称は「全京城軍対全平壌軍蹴球対抗戦」。運動場を埋め尽くした観衆約7000人は当時としては大変な数だった。試合のある日、市内の商店は皆休業するほど。日帝(総督府)は京平戦の背後に民族意識が作用しているとみて神経を尖(とが)らせた。
京平サッカーは1935年まで行われ、光復(解放)の翌年、1946年3月にソウルで再開された。しかし、38度線で南北の通行が制限され、陸路でソウルを訪れた平壌の選手たちは船便で帰った。翌年、ソウルの選手たちを招請するという北朝鮮の約束はついに守られなかった。
再開を望む多くの人々の念願が叶(かな)ったのは1990年。南北和解の雰囲気に乗って「南北統一サッカー交換競技」と名称を変えて平壌とソウルで試合が行われた。44年ぶりの南北サッカー再開で、国民は心は躍ったが、それも単発で終わった。雰囲気が改善するたびに南北関係がこじれたためだ。
ソウル市が京平サッカーを復活させる方針を定め、統一省と協議するという。南北関係にも薫風が吹けばいいのだが。
(2月27日付)