カメラも返してもらえない、日本が影響力を持てるか ミャンマー
ミャンマーのクーデターは、国軍が「この国は軍が柱」という、1962年のネウイン将軍のクーデター以来の強い信念で断行したのだろう。一方、民衆は熱い思いで、全土で10万人以上もの抗議デモを続ける。「強い信念」側は中国の「内政不干渉的支援」を確信し、「熱い思い」側は米欧日などの支援を頼る。日本の対応について、本紙で池永達夫氏が「非難と関与の2本立て」が必要と書いている。全くその通りだろう。ただ、日本がしっかり非難できるか、影響力を持てるのか、懸念を拭えない。これまでの日本外交はここでも強権政治に対して甘かったと思うからだ。
私がバンコク駐在記者となった1970年代末、隣のビルマ(現ミャンマー)情勢に関する本は、日本では元大使の著書が1冊ある程度だった。元大使はネウイン大統領(後に党議長)を、清廉・高潔な指導者と賞賛(しょうさん)していた。
だが、閉鎖的で独自の社会主義というビルマにやっと入国して見ると、市街は英植民地時代そのままで古色蒼然(そうぜん)。「極貧国で建物を塗り直すペンキもない」と市民が自嘲していた。病院設備も酷(ひど)く薬品も無い。だがネウイン一族はしばしば欧州に健康チェック旅行に行く。変な高潔だった。
88年に「熱い思い」が大爆発し、アウンサン・スーチーさんも登場して民主化運動デモが結実しかけた。引退を余儀なくされたネウイン氏は、イタチの最後っ屁(ぺ)で「軍は今後、銃を水平に向けて撃て」と言い放った。数千人の死者が出たとされる。
だが、すぐクーデターで新軍事政権が登場、スーチーさんは自宅軟禁され、95年にその1回目の軟禁を解かれた。ネウイン時代からの最大援助国、日本は、欧米が経済制裁を続ける中で援助を継続した。日本の当局者は「この国の軍人は外圧が強いと一層頑(かたく)なになる。日本の対応が軟禁解除に有効だったはず」と自賛していた。だがそうとは思えなかった。
96年、私はインタビューのためスーチー邸を訪れ、門前の大群衆に目を見張った。週末に彼女が現れる。それを待って、熱帯の国の最も暑い季節の歩道上に何時間も坐(すわ)っている。「熱い思い」が漂っていた。
だが、当時の日本大使が大の軍政びいきで、その後「あの群衆の騒音で昼寝が妨げられ、いい迷惑だった」などと言っているのを知って驚いた。大使公邸はスーチー邸に近い。でも群衆の熱気は騒音でしかなかったのか。
07年の僧侶を中心とした反軍政デモも、「熱い思い」が燃えたものだった。国連報告の105人の死者・行方不明者には、取材中に射殺されたビデオ・カメラマン、長井健司さんも含まれていた。
映像を見ると、夢中でカメラを回す長井さんのすぐ背後から、兵士が容赦なく水平に撃っている。遺品のカメラは、遺族が日本外務省を通じて返却を訴えたのに今だ返されていない。
最近では19年末、日本大使の「国軍はロヒンギャ大量虐殺をしていない」発言が伝えられ、在日ロヒンギャらが霞が関で抗議デモをする騒ぎもあった。こうした過去を振り返って、日本の姿勢の甘さを感じるのだ。(スーチーさんや民衆の側にも問題が無くはないが)
国軍は今回、スーチーさんと国民民主連盟(NLD)の力を十分に叩(たた)き潰(つぶ)すまで、不退転の決意だろう。「以前の軍政も外圧の中、民政移管まで25年頑張った。今は強大な中国も支えてくれるはず」と思っているだろう。それに対し、カメラも返してもらえない日本がどれだけ影響を及ぼせるのか。まずは米欧と共に対デモ水平撃ちへの抑止力となれるか。一つの正念場に違いない。
(元嘉悦大学教授)