文政権で状況一変、太氏の著書出版に圧力
太永浩氏が脱北直前までいた駐英北朝鮮大使館の外交官たちは、他の欧州駐在外交官たちとは違い、北朝鮮がミサイル発射や核実験などの武力挑発をしても滞在国政府から国外退去を命じられることはなかった。それは英国が戦略的に北朝鮮を重視しているためだ。
「北朝鮮と国交のない米国に代わり英国は平壌に大使館を構え、情報収集している。ここには私の推定で数千万㌦の現金が保管され、反体制派支援に備えている。だから保衛省から厳しく監視され、金正恩氏もそのことを知っているはずだ」(太氏)
英国は北朝鮮での“工作”に目をつぶってもらう代わりに、英国内の北朝鮮外交官が違法な外貨稼ぎをしても取り締まらなかった。
北朝鮮外交官にとって欧州赴任は本国で味わえない自由や豊かさに触れることができる人気コースである。しかも太氏は大使館ナンバー2まで登り詰めたエリートだ。それなのになぜ脱北に踏み切ったのか。太氏はこう説明する。
「金氏世襲政権の不当性をかなり前から感じていたが、自分が脱北すれば連座制で本国の家族や親戚に多大な苦痛を与えるのでできなかった。しかし、私に連れられて英国など西側諸国を肌で感じた息子が再びあの監獄のような北朝鮮に戻って奴隷のごとき生活を強いられる苦痛を想像すると親として耐えられなかった」
16年夏に韓国亡命を果たしたが、韓国は翌年、北朝鮮に融和的な文在寅政権に交代、太氏が置かれた状況は一変する。昨年5月に出版した北朝鮮批判本をめぐり「南北・米朝対話に水を差しかねないから出版を遅らせてほしいという間接的圧力があった」(関係者)という。太氏は所属していた政府系シンクタンクに辞表を出さざるを得なくなった。
韓国に定着する3万人超の脱北者も活動の範囲が狭められている。北朝鮮民主化を求め、独裁打倒を叫ぶ多くの脱北者団体への政府支援金が至る所で途絶えた。
太氏は現在、講演やブログ、マスコミの取材などを通じ金正恩体制を斬り続けているが、対北融和に傾く韓国メディアへの不満も露(あら)わにした。
「今月8日の人民軍創建日で金正恩氏は演説し『戦う準備をせよ』と呼び掛けたが、韓国メディアはこれを『核開発に言及しなかったので非核化意志を披歴したもの』と報じた。北朝鮮の真意を見ず、正しい見方を伝えないのはフェイクニュースだ」
最後に国際社会に訴えたいことは何か尋ねた。
「金正恩氏は絶対に核を放棄しない。北朝鮮体制は核放棄不可体制だ。盛んに米国が見返りを与えれば北朝鮮を変化に誘導できると考えるのは間違っている。金氏一族にとって核は生存のための酸素のようなもの。独裁を終わらせない限り、完全非核化は達成できない」
4時間余りに及んだインタビューの中で太氏が一番力を込めて語った内容だ。
この春、太氏の著書の日本語訳版が出版される。多くの日本人読者が金正恩体制の実態を改めて知るきっかけになりそうだ。
(ソウル・上田勇実)
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