「物語的な生命」営む人間 名寄市立大学教授 加藤 隆氏に聞く
「美しい刻」刊行に寄せて
教育改革が叫ばれて久しい日本の教育界。平成18年に改正教育基本法が成立したものの、その成果が表れているとは言い難い。文部科学省は英語の小学校低学年導入や道徳の特別教科化などさまざまな教育政策を打ち出すが、表層的な感は否めない。そうした中で名寄市立大学の加藤隆教授がこのほど、一冊のユニークな本を著した。タイトルは「美しい刻(とき)」。今から50年後の未来を舞台に明治、大正、昭和を生きた偉人が一堂に会して人間の生き方を論議するという内容だが、同教授にこの書を刊行した目的あるいはその書物を通して現代人に訴えたい内容などについて話を伺った。
(聞き手=湯朝 肇・札幌支局長)
過去の偉人、未来で一堂に/教育をテーマにシンポ
宇宙の力感じる感性を/根本的な精神的価値観持て
――この本の舞台は西暦2056年になっています。そこでは、既にこの世を去った人々との交流が可能になっていたという設定になっています。とてもユニークな設定でSF小説のようでもありますが、この本を出版された動機は何だったのでしょうか。
大学は調査研究の場ですから、教員はその成果を論文で報告する義務があります。それは重要なことなのですが、ある意味で証拠づくりに邁進(まいしん)する面があります。一人の人物像を描くにも論拠となる証拠や事実を挙げて展開していかなければなりません。それはそれで面白いのですが、人物に息吹を吹き込むというのでしょうか。私はもっと自由にフィクションも取り入れてその人物に語らせたいという思いがありました。また、論文形式ですと学術的になることから読む人の範囲が限られてしまいます。私は本を出版する以上、多くの人に読んでもらいたいと思い小説風にしました。
――この本では内村鑑三やクラーク博士、宮澤賢治など6人の人物が登場していますが、登場人物の選定はどのように考えたのでしょうか。
登場人物に関しては、どなたでもよかったのですが、私自身、長年にわたって内村鑑三やクラーク博士、宮澤賢治といった人物に焦点を当てて研究してきました。この本ではこれらの3人の他に新渡戸稲造、白洲次郎、レーチェル・カーソンが登場します。ただ、これらの人物を一人ひとり別個に登場させるのではなく、もし彼らが一堂に会したら、どのような会話をするだろうかと考え、むしろその方が味のある面白い展開ができると思ったのです。
――それで2056年なのですね。
現在、私たちは携帯電話やパソコンなどを使い、音声や画像を用いて地球の裏側まで双方向で連絡を取ることができます。それだけでもすごい科学の進歩だと思うのですが、100年前では考えられなかったことです。それがさらに50年も経つともっと科学技術が向上するでしょう。そこで過去の人物を現代の舞台に登場させる技術が確立し、互いに会話交流できる社会になると設定しました。
つまり、この本では過去への時間の相互移動ばかりでなく空間の移動も可能になる日が到来し、その記念日に、内村鑑三や新渡戸稲造、クラーク博士、宮澤賢治、白洲次郎、レーチェル・カーソンが現代によみがえり、一堂に会して壇上でのシンポジウムで話し合う、というストーリーになっています。
これは別の面でいうと過去が現代に入り込み、未来も溶け込ませて渾然(こんぜん)一体になっている姿でもあります。
――この本を読んでみると、議論だけでなく体内旅行や宇宙旅行などがあり、ストーリーの展開が早いという印象を受けましたが。
本が刊行された後に数人の人から感想をもらいました。すると、ある人が「臨場感がある。これは映画や劇にすると面白い」と話していました。第1章、2章は講堂の中での議論ですから下手をすると登場人物の大討論会のみに終わってしまう危険性があります。そこで司会者を交代させ、米出虎次郎という大阪弁の司会者に入れ替えるなど会場の雰囲気を変え臨場感を持たせる工夫をしました。
また、この時代は科学技術がかなり進歩し、時間空間を自由に動くことができるので、それに合わせて体内旅行や宇宙旅行なども取り入れ、「小宇宙」としての人間を疑似体験してもらう。そういう意味では単なる討論会のシンポジウムとは違った構成になっています。
――シンポジウムのテーマは「教育―その光と影」となっています。現在の教育の在り方に対して、一つの提言を成しているように思うのですが。
科学の世界からみると知識が高度化し技術が進歩する一方で、内面的な生命の部分がないがしろにされている気がしてなりません。例えば、それこそ命を取り扱う医療分野でも、技術はかなり進歩しました。
しかし、医療の高度化で一つの部位に特化したものの、精神的な世界を含めて全身を診ることが難しくなっている気がします。特に多くの医者が人間の身体や命を単なる生物学的な命としか見ない風潮にあるように感じます。また、それは教育の世界も同じで、人間を一人の人格としてみる全人的な教育を施すのではなく、知識・技能偏重の教育に陥っている感があります。
それに対して私は、人間の命は単に生物学的な生命ではなく人間には「物語的な生命」の営みがあると捉えました。作品の中で過去の人物6人を登場させてストーリーを展開しましたが、死んだ人間がこの世に再びよみがえって議論すること、それ自体が命の大きな流れの中で行われているということを暗示しています。
――加藤先生は、この本のあとがきの中で、「人間の営みを皮膚感覚で確認し合うことの大切さとともに、それを越えた不思議さに思いを馳せることの大切さを訴えたつもりである」と述べていますが、今の学校教育に必要な事柄ですね。
私が小学校の頃、よく郊外の山にスキーをしに行って、疲れたらストックの輪に雪をためて近くの小川にさっと浸して吸っていました。最高の水の味でした。最近は疑似体験的な事柄が多くなり、五感を通じて直接見たり、聞いたり、触れたり、味わったりという経験が少なくなっている気がします。人間が人間であることを放棄しているようにも思います。
さらに、作品の中にも登場したレーチェル・カーソンの言葉に「センス・オブ・ワンダー(不思議に対する感覚)」がありますが、見えない世界に対する不思議な感覚、あるいは宇宙の大きな力のようなものを感じることは人生の中でとても重要なのだと思うのです。そうした体験や感性を持つことが人間らしく生きることにつながる気がします。
――かつて筑波大学の村上和雄名誉教授が「サムシング・グレイト(何か偉大なもの)」と述べていましたが、宇宙を覆っている偉大な力あるいは大きな命に出会うことが人間の生き方に大きな力になると。
人間の命は決して偶然の産物ではありません。死んでしまったらそれでお終(しま)いではなく命は永続していくと思っています。死は決して終わりではなく、死は再び生きるスタートと言ってもいい。そう考えれば生き方も生活も変わっていきます。「死ねば全てが終わり。何をやってもいい」といった諦めや享楽的な生き方はできなくなります。豊かな生があるように豊かな死を考えるようになるでしょう。この小説の底流にも、この精神が流れています。
白洲次郎が生前「日本人には精神的なプリンシプル(原則)がない」と述べていましたが、経済的な豊かさや学歴などといった表層的な価値観よりも、より根本的な精神的価値観を持つことの重要性に気づく時代が来たのではないでしょうか。