心を整えて建設的な人生を
「あるがまま」認め適応
森田療法の生き方セラピー
昨今の世相は、他人を気にして失敗を恐れるあまりに、何でも完全にやろうとし無理な生き方を強いられているのではなかろうか。
その結果、過度の緊張で心身に歪(ひず)みを生じ、不安と悩みを伴う「不定愁訴」となって現れているのではないかと思うのである。
このような無理な生き方によって生ずる心の葛藤の解消法として近頃注目されているのが、東洋的な価値観に根差した精神療法である「森田療法」ではなかろうか。
そこには“あるがまま”という「無為自然」の物事に拘(こだわ)らない生き方セラピーが説かれている。日々、不安と焦燥に苛(さいな)まれているストレスフルな世相にあって、それを上手に乗り越えて建設的な人生を送るための頃合いのある生き方セラピーを 森田療法から汲(く)み取ってみたいと思うのである。
森田療法が生まれた状況は、西欧の文明・文化がわが国に流れ込んで来た明治・大正期で日本人の価値観が大きく揺さぶられ、先行き不透明で不安と葛藤が渦巻き、今日言うところのいわゆる「不安神経症」に人々は苛まれていたのではないかと思われてならない。
森田正馬(まさたけ)(明治7年~昭和13年)(以下・森田と略す)は、土佐(現・高知県)生まれで、土佐の県民性である“いごっそう”という頑固で気骨のある人の自己主張の気性を自然に身に付け、それが後の独自の精神療法(森田療法)を確立する原動力となったと思われる。
明治35年に東京帝国大学医科大学を卒業した29歳の森田は、精神医学を専攻し、自ら悩んだ神経衰弱の研究と治療に取り組む決意をし、後に慈恵医院医学専門学校(後の慈恵医大)で30歳で講師として精神病理学の講義を担当する。やがて、自由な開業医の道を歩み始め、それが新しい精神療法を生み出すための柔軟で豊かな発想を可能にし 「森田療法」へと導いたのではなかろうか。
森田の思想の根底は、西欧的人間理解(原因・結果論)と東洋的人間理解(円環論)との対比で捉えることが重要と思われる。
つまり、フロイトの精神分析理論に対して批判的であり、東洋的な人間理解に立脚して“おのずから成る”という「内的自然」としての円環論に東洋的な知恵を見いだしている。そこで森田療法の対処法を紹介しながら建設的な生き方セラピーについて述べてみたいと思う。
人生で遭遇するさまざまな問題、例えば悩み・苦しみ・行き詰まりなどによって生ずる心の葛藤を解決する知恵が「あるがまま」という東洋的な処方箋に基づくのが森田療法の考え方である。悩むということは、常軌を逸して無益に円の周りをグルグルと回るようなものであるという。これは「繋驢桔(けろけつ)」(臨済録示衆)と呼ばれて、悩む人の心理はまさしくこの「繋驢桔」に陥っているのではなかろうか。要するに人生は苦は苦であり楽は楽であるという。つまり“柳は緑、花は紅”であり、苦は苦として引き受けて、それになり切った時に、苦を抜け出し次第に楽が見えてくる。これを“自然に服従し、境遇に従順であれ”と森田は言う。
この「あるがまま」は「事実(じじつ) 唯(ただ) 真(まこと)」であり、それは単に受け身ではなく、ダイナミカルに臨機応変に、恐るべきを恐れ、逃げるべきを逃げ、落ち着くべきを落ち着くのが、人間の自然な心をありのままに認めて人生に適応していくありさまであるという。
これは、同時に「事実本位」(行動本位)ということでもある。例えば、今日一日は悲観しながら働いて過ごしたので駄目だと考えるのが「気分本位」で、それに対して、まず働いたからそれでよいと思うのが「事実本位」(行動本位)の生き方で、気分が落ち込んで暗い気持ちでも、その気分に捉われないで、今ここでできることを行うのが「行動本位」である。つまり“気分本位でなく行動本位”であれと森田は言う。このことは、「外相整えて、内相おのずから熟す」という森田療法の考え方でもある。つまり、外相すなわち生活面での行動を整えれば、それによって内相である心も後から自然に整ってくるというのである。
この言葉は、吉田兼好の『徒然草』に“外相(げそう)もしそむかざれば、内証(ないしょう)必ず熟す”(157段)とある。さて、森田療法の生き方セラピーで重要なのは、「計(はか)らわない」で「おのずから成るもの」という、「いのち」の生命現象である。つまり、それは私たちに自然に備わっている感覚・感情・生きる力である「内的自然」である。私たちが、物事に捉われないで無心になった時、さまざまなものを生き生きと感じ取れる、つまり、無為自然になった時に、私たちに備わっている自然の力(生きる力)が湧いてくる。これが本来の生きるエネルギーの源であり、これによって建設的な生活が実現するのである。
今、改めて森田療法を見詰め直す時、そこには、私たちが忘れ去っていた本来の生命力である生きる力に甦(よみがえ)る源があることに気付かずにはいられないのである。
(ねもと・かずお)