「老い」と「病」にどう向き合う

根本 和雄メンタルヘルスカウンセラー 根本 和雄

先賢に学び肯定的思考で
なお人生の目的に向かい歩む

 わが国における平均寿命は年々伸び続けて、今や「人生80年時代」を迎える昨今である。そこで問われるのは、「老い」をどう受け入れ「病」とどう向き合うかということではなかろうか。人生の晩年を豊潤の季節として日々を豊かに過ごすには、どのような生き方が求められるのか、先人の知恵に学んでみたいと思うのである。

 固(もと)より「生老病死」は、釈尊の「四門出遊」(四門遊観)説による人生の苦悩の四つの原因とされて、生と死の挟間に「老い」と「病」があることを思うにつけ、これはいずれも避けられない必然ではなかろうか。その必然の苦しみを深く味わう中で、その苦悩をも昇華していく処方箋が秘められているのではないかと思う。

 例えば、中国明代の呂新吾(1536~1618)は〝老ゆるは嘆くに足らず、嘆くべきは是(こ)れ老いて而(しか)も、虚しく生くるなり〟と述べている(『呻吟語』)。確かに、ギリシャの政治家、キケロは〝日に日にあまた学びつゝ老いてゆく〟とノロン(古代ギリシャ七賢人の一人)の言葉を引用している(『老年について』)。つまり、「老い」が凋落(ちょうらく)だけのみじめな時でなく、むしろ思慮と見識ある老熟期であるという。そして、キケロは〝静謐(せいひつ)で穏やかな老年は、静かに清らかに優雅に送った人生から得られる〟(同書)と述べている。つまり〝人は老いに従うことによってのみ、老いを自分のものにすることができる〟(スイスの人格医学者、P・トゥルニエ)ということ。従って、「老い」を受容することによって「老いの意味」を会得し、「老いの価値」を見いだすことができるのではなかろうか。

 「老い」は加齢とともに肉体は衰弱するが、内面的深さが開花し、アメリカの心理学者、キャッテルのいう「結晶性能力」(判断力・洞察力)が蓄積され、老熟・老練な人生へと進むのではなかろうか。これまでの合理的現実的な考えから非合理的な超越的世界観へと変わる。これを「老年的超越」とスウェーデンの社会学者・トルンスタム教授は呼んでいる(1989年)。

 このことは、「老い」を肯定的かつ建設的に受け止めて、そこに深い意味を見いだそうとしているのではなかろうか。それ故に〝日暮れて而(しか)も烟霞(えんか)絢爛(けんらん)たり、故に末路晩年は精神百倍すべし〟(「菜根譚」・前集198)とは「老い」の人生への深い励ましの言葉である。

 次に「病」について考えてみたいと思う。〝人と為(な)り多病なるは未(いま)だ羞(は)ずるに足らず、一生病なきはこれ吾(わ)が憂いなり〟と語ったのは、中国明代の思想家、陳白渉(1428~1500)である。ここでいう〝一生病なきはこれ吾が憂いなり〟とは、「病む」ことによってこれまで気づかず忘れかけていた思いやり、労(いた)わりの気持ちに心配りができるようになることへの目覚めではなかろうか。

 確かに、「病む」ことによって、人は内省的にかつ鋭敏な感性が養われ人間をより深みへと導いてくれるのではないかと思うのである。これこそが「病」の恩寵(おんちょう)という他はないのである。

 例えば、詩人で牧師の河野進は〝病まなければ聴き得ない言葉がある/病まなければ見えないものがある/病まなければ私は人間でさえもありえなかった〟と詠(うた)っている(「祈りの塔」)。

 すなわち、「病む」ことによって人間を根源的な深みへと成長させてくれるのである。まさしく「病の人間学」という他はないのである。つまり、「病」という苦痛な状況によって生命の価値を実感し、人生の目的を見直し、親しい人々への感謝を通して自分自身が成長することによって得られるのが「利得の発見」に他ならないのである。この「利得の発見」によって、ストレス反応の低下や免疫力の維持がなされ生存期間の延長がみられるという。

 さらに、自分の免疫力で自然治癒に導いた人たちは、病気に対して感謝の気持ちを抱くようになるという(安保徹著「自分でできる免疫革命」)。

 このように、「老い」と「病」を身に受けつつも、その人らしく少しでも人生の目的・目標に向かって歩む時、それはその人にとって最も適した心身の状態であるのではなかろうか。アメリカの病理学者、ルネ・デュボスは「健康」とは、〝病んで傷つきつつも人生の目的を達成しつつある状態〟と受け止めている(「健康という幻想」1958年)。

 このことは、世界保健機関(WHO)の健康の定義(98年)に、〝スピリチュアルにも良好な状態〟を付け加えたことからも理解できるのではないかと思う。

 私たちの人生は、「人生80年時代」というものの、生かされて生きている自然の摂理を思うとき、宇宙の一瞬の出来事であるのかもしれないのである。それ故、儚(はかな)い尊い生命をその日、その時、「今」を大切にして切に生きる思いが一層募るのである。

 〝一大事とは、

今日 唯 今の心なり〟

(白隠禅師・道鏡慧端の言葉)

(ねもと・かずお)