休戦協定63周年


韓国紙セゲイルボ・コラム「説往説来」

 1950年に勃発した6・25戦争(韓国動乱)は3年余り続いて韓半島を廃虚にした。北朝鮮軍が破竹の勢いで南下した後、9月の仁川上陸作戦を契機に国連軍と韓国軍が鴨緑江まで進撃したものの、10月の中共軍の参戦で退却し、北緯38度線付近で押しつ押されつの膠着(こうちゃく)状態になるまで1年かかった。

 その後、休戦交渉が進められる間、中部高地の戦闘で数多くの若者たちが命を失った。休戦交渉は51年7月、開城で始まり、翌年10月、板門店に場所を移した。戦争を終わらせるのではなく、一時的に中断する交渉なので、臨時国境線の設定、休戦履行の監視など、合意すべき事項が多く、内容と手続きが複雑だった。

 (韓国の)李承晩大統領は反共主義者の捕虜を釈放して休戦に反発したが、53年7月27日、マーク・クラーク国連軍司令部総司令官と金日成朝鮮人民軍最高司令官、彭徳懐中国人民志願軍司令官が休戦協定に調印し、全ての戦線で銃声がやんだ。光復(日本からの解放のこと)直後、38度線で分断された南北は155マイルの曲がりくねった軍事境界線(MDL)で再び分断された。MDLを基準にして南北それぞれ2㌔の区間を非武装地帯(DMZ)に設定し、軍事休戦委員会と中立国監視委員団が発足した。

 当時、休戦体制がこれだけ長く持続すると考えた人間は誰もいなかった。李大統領が休戦協定に調印しなかったのも、分断を過渡期的な状況だと考えていたためだという。しかし既に63年が流れた。若い頃に戦場を避けて南に一時避難した人たちは今や白髪の老人となり、北の空を眺めて涙ぐんでいる。月日がたつにつれて休戦体制も変貌した。協定の一部条項は有名無実化し、DMZには重火器が配備されている。

 板門店は分断を象徴する場所だ。小説家の成碩済氏は昨年出版した散文集で「板門店は韓半島に住んでいるわれわれ各自の人生、生涯を支えるものの中でも最も強固なもののうちの一つだ」と語っている。板門店の会談場については、こんな言葉を残している。

 「一時的な用途に合わせて造った施設が年年歳歳、自然の風雪はもちろん人間同士の激しい対決に耐えなければならなかったので、外側は新しくなり続け、上塗りされてきたはずだ。人はまた、どれだけ変化し、磨かれてきたのだろうか」

 (7月27日付)

※記事は本紙の編集方針とは別であり、韓国の論調として紹介するものです。