戦後70年の問題は明治から
功利に走った150年
性悪説的人間観の再評価を
戦後70年ということが至るところで取り上げられ、メディアでもいろいろな特集が組まれている。以前、ひめゆり学徒の手記を読んだことがあるが、潜んでいた壕にガス弾攻撃があり、阿鼻叫喚の中、大半の教師学生が亡くなる。自身も気を失い3日目に意識が戻ると、たくさんの死体の下に埋もれており、その死臭に堪えられなくて壕から出てしまったという。この証言のように、一人一人の身体と五感を通り抜けた「戦争」「第2次大戦」「平和」に深く思いを致さなければならない。
その意味では、終戦から10年ほど後の昭和31年の経済白書には、「もはや戦後ではない」と記されており、これもまた当時の高度経済成長の高揚感の中で人々の身体と五感を通り抜けた「戦争」「第2次大戦」「平和」だったのかもしれない。
いずれにしても、日本の敗戦で終結した第2次大戦を境として、前と後、つまり戦前と戦後で区切る視点も重要なことには違いない。しかしながら、今日の学校や企業、社会全体に噴出している病魔的実態や制度疲労を見るにつけ、戦前戦後論を俯瞰したような、より広い視点から歴史を捉えるべきではないかと思えてならない。それは何かといえば、明治150年という歴史の視座である。明治の日本が中央ポールに掲げたエトス(特質)が、今日まで連綿と息づいているのではないかということなのである。
歴史を振り返ってみたい。江戸時代の276藩がそれぞれに国と考えられていた時代から、それらが合体して日本国という国家になることの尋常ならざるエネルギー、或いは、当時の帝国主義の欧米列強が虎視眈々とアジア諸国を貶めようと狙っていた時代背景を考えると、明治政府の危機感は我々の想像を遥かに超えて余りある。そのため、欧米の先進的社会システムを導入すべく、明治新政府が中央集権的手法で、やや強引に制度改革や社会改革を進めざるを得なかったことは理解しなければいけない。
しかしながら、そのことを忖度(そんたく)した上でも、明治新政府が差し出した国民皆学の学校教育を支える思想が、あまりにも功利と損得勘定であったこと、このような精神的血流を学校教育の土台において出発したことの弊害は大きい。例えば、明治5年(1872年)に公布された学校教育の基本法である「学制」には、次のような文言が並ぶ。「教育は“生を治め、産を興し、業を昌にする”ためのものであり、“学問は身を立るの財本ともいふべきもの”でなければならない」これは、今日の言葉に直すならば、「学校教育は社会的上昇と繁栄(立身出世)になります」「学校教育はビジネスの成功を約束します」「教育を身に付けたら儲かります」という宣言に等しい。まさに、今でも通用している合言葉ではないか。
このような教育観に対して、明治期の斎藤緑雨が「教育の普及は浮薄の普及也」と警鐘を発し、内村鑑三が「近頃、毎日思わせらるる事は、今日の日本に教育らしい教育のないことである。文部省は教育の何たる乎をしらず、又、国民を教育するの能力も権威もない」と警鐘を発し、市井の心ある者が警告を発した。しかし、明治期に感染した「教育を損得勘定で判断する病」は、戦前戦後を飲み込んで益々強化され、やがては、道義なき商売国家、人や国を損得打算で評価するエコノミックアニマル国家に成り果てた150年だったのではないだろうか。
そのような視点から見るならば、最近の新聞紙上を賑わせている出来事の理由も合点がいく。旭化成建材の杭打ち工事のデータ改ざん問題。素人にデータ改ざんなど分かるはずもないと決め込んで、目先の損得勘定に走ったのである。或いは、バブル最盛期の頃、教育行政の面々が裏金づくりに奔走し、「金で解決しよう」を合言葉のように叫んでいたのを何度も目にした。その意味で、連綿と続く損得勘定をさらに強化するような市場主義経済が席巻している日本の社会にあって、道徳の教科化がどこまで実のあるものになるかは甚だ心配である。
ところで、明治期の前まではどんな人物がいただろうか。内村は名著『代表的日本人』に5名の人物を登場させて論じている。西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人である。彼らに共通するのは、「依法不依人」(日蓮)、「敬天愛人」(西郷)、「天意」(鷹山)、「天理」(藤樹)などに見ることのできる超越的存在に対する誠実さや謙虚さである。また、それに裏打ちされる人間に対する「虚」としての自覚、生きていること自体どこか罪を生み出すものだという、いわば性悪説的な人間観である。明治150年という歴史の視座というのは、単に学校教育や社会制度が損得勘定で推移したということに止まるのではなく、その根底には超越的存在に対する誠実さや謙虚さなどの人間観があるかどうかが問われているのである。
そろそろ、明治150年を終焉させる時が来ている。損得勘定を超える価値観を我々は身に付ける時代が求められているのではないだろうか。日本が滅ぶとしたら、科学、芸術、富、愛国心の欠如からではなく、人間の真の価値についての認識、崇高な法の精神の感覚、人生の基本的原則に関する信念の欠如からである。心ある人間は分かっているのである。
(かとう・たかし)