「新聞紙の外交論」から考える
言論にも然るべき作法
対中韓批判過ぎれば隘路に
「…随(したがっ)て新聞紙の如きも自から事に慣れざるが故に、其の議論にも自ら用心を欠き、却て大言壮語して国内の人心を騒がすのみならず、実際に当局の事を妨るの感なきに非ず。本人の考は毫も悪意あるに非ずと雖も、国家の不利は免かる可らず。大いに警(いま)しむ可き所なり。外交の結局はつまり国力の如何に決するものなれども、その掛引は甚だ微妙なり…」
「外交の事態いよいよ切迫すれば、外交の事を記し又これを論ずるに當りては自から外務大臣たるの心得を以てするが故に、一身の私に於ては世間の人気に投ず可き壮快の説なきに非ざれども、紙に臨めば自から筆の不自由を感じて自から躊躇(ちゅうちょ)するものなり。苟(いやしく)も国家の利害を思ふものならんには此心得なかる可らず」
――福澤諭吉 「新聞紙の外交論」『時事新報』(明治30年8月)社説。
「言論の自由」は、近代市民社会において尊重されるべき根本原則の一つであるけれども、その言論にも然るべき「作法」がある。特に政治や外交に絡む評論の「作法」を教えているのが、この福澤諭吉の「外交の事を記し又これを論ずるに當りては自から外務大臣たるの心得を以てする」という記述である。「世間の人気に投ず可き壮快の説」を披露するようでは、評論としては堕落だということである。
存外、この「作法」に則った評論は難しい。「世間の人気に投ず可き壮快の説」を披露する方が、人々の感情を逆撫でしない分だけ、言論家にとっては安全である。目下、その説の最たるものが、中国や韓国に対する批判を専らとする説であろう。
ところで、今秋の北京APEC(アジア太平洋経済協力会議)を機に日中関係の「雪解け」が始まれば、韓国の立ち位置が難しくなるであろうというのは、平凡な予想の類である。故に、朴槿恵(韓国大統領)政権下の韓国政府も、日本に対して突っ張っていた従来の姿勢に修正を加える必要が出て来よう。
しかし、中国にせよ韓国にせよ、政府レベルでの「雪解け」の模索が、そのまま対日関係の好転には一直線には結び付くまい。目下、難しさは、「普通の日本人ですら、韓国に対する悪印象を持つようになった」という事情によって、その度合いが高められている。中韓両国のメディアが伝える認識によれば、普通の日本人が韓国に抱いているのは、近代以来の「優越意識」や近年の経済停滞を背景にした「焦慮」らしい。
けれども、1980年代以降の「日中友好」の歳月や2000年代以降の「韓流ブーム」の歳月の後、急速に進んだ対中感情や対韓感情の冷却は、日本の人々が中韓両国に対して抱いた「幻滅」や「落胆」を反映したものと解されるべきである。
実際、先刻、言論NPO(民間非営利団体)・中国日報社が発表した日中共同世論調査の結果に拠れば、日本における直近の対中印象は、〈良い―悪い〉の評価で〈6・8―93・0〉という数字を示すまでに極度に悪化しているけれども、その理由としては、「国際的なルールと異なる行動をするから」や「資源やエネルギー、食料の確保などの行動が自己中心的に見えるから」が前面に出て来ている。
日本のナショナリズムが沸騰しそうな「尖閣諸島を含む領土」や「歴史認識」は、対中認識を成す条件としては、その比重を既に低めつつあるのである。
要するに、対内的には国内少数民族への圧迫や思想・報道統制を続け、対外的には「力を恃(たの)む」姿勢を露骨に表しつつ、ヴェトナムやフィリピンのような国々との摩擦を激化させている中国の現状それ自体が、対中感情の悪化を招いている。
戦後、第2次世界大戦時の反省の上に立って、「国際協調」と「自由や人権の擁護」を自明の大義にしてきた大方の日本の人々の価値意識には、中国の現状は相容れるものではない。故に、その「幻滅」や「落胆」を別の情緒に上書きするのは、相当に難しい。日本における対中感情や対韓感情の悪化が、ただ単に「観念」のレベルに止まっているならばともかく、「生理」のレベルまで落ちてきたら、もはや修正が利かなくなる。
中韓両国への批判を趣旨とする「世間の人気に投ず可き壮快の説」が流布する余地は、依然として広いけれども、「自から外務大臣たるの心得を以て」披露された言説が受け容れられる余地は、確実に狭まっていく。
それは、日本外交に「硬直性」の種を蒔(ま)くことでもある。対中関係や対韓関係の抱える難しさの本質は、そうしたことにある。そして、その故にこそ、対中関係や対韓関係を扱った評論も、確実に難易度の高いものになってきているのではないか。
(さくらだ・じゅん)






