新聞と歴史は疑ってかかれ

小林 道憲哲学者 小林 道憲

人間の主観が入る記述

脚色、誇張、歪曲、捏造など

 「すべての歴史は現代史である」と言ったのは、イタリアの哲学者クローチェである。つまり、過去を理解するということは、現代の目を通して過去を見るということである。しかし、そのために、歴史記述は、往々にして、現在からの単純な歴史評価がなされることが多いと言わねばならない。

 一つの時代は、その前の時代に対して、しばしば道徳的判断を押しつけがちである。しかも、歴史叙述には、多かれ少なかれ、イデオロギー性が含まれ、過去は、現代人の都合のよいように利用されて、事実の潤色や脚色、歪曲(わいきょく)や捏造(ねつぞう)がなされる。

 歴史的事実は何とでも解釈できる多義性をもつから、歴史的事実の解釈は、解釈者の立つ歴史的状況に左右され、善とでも悪とでも判断される。同じ一つの歴史的事実からどのような意味を取り出してくるかは、歴史家のもつ図式に左右されるのである。また、何らかの歴史的事実を物語る証人でも、その証言には、証言者の思い違いや記憶違い、別の意図や思惑、ときには自己弁護などが入り込み、必ずしも信用できるものではない。

 それゆえ、どんなに良心的な歴史研究者でも、歴史的対象に自分なりの図式を当てはめることによって歴史認識を成立させることになる。歴史家も、みずからの仮説に基づいて歴史的事実に選択や単純化を施すのである。この場合、歴史家は歴史家の関心に従って視野を限定し、その視野に入ってきたものを描写する。そうすると、そこに視野の狭窄(きょうさく)からくる誇張などが入り込み、他の部分が見えなくなることにもなる。

 史料や証言に基づいて歴史を語る歴史家にも、偏見や先入観が働くのである。歴史家も、自分が生きる歴史的現実の中に巻き込まれており、種々の利害や感情をもっている。そのような立場から歴史的事実も評価されるのだから、そこから記述される歴史は客観的ではない。史料や証言から構成される歴史的事実には絶えざる変形と加工がある。

 そのような変形や加工に、歴史家の主観が入ってくるのである。ときには、特定の史観やイデオロギーに基づく歴史記述も可能になってくる。こうして、歴史はしばしば歪曲され、捏造されうるのである。

 さらに、歴史的事実は、言葉によっても言い変えられていく。また、その言葉そのものも、その意味するところを微妙に変化させていく。かくて、歴史は常に物語られていくのである。歴史家は、それぞれ独自の人生観や世界観をもっており、その図式や尺度から事実の配列を考え、組み立て直し、歴史を物語る。そこに、おのずと歴史家の解釈が入ってくることになる。

 それが次々と受け継がれていくのだから、ときには、伝言ゲームのように似ても似つかない歴史的事実がつくり出されていくこともある。歴史は、どのようにでも物語化できる。しばしば、政治的な偏りを忍び込ませた歴史さえ物語られる。歴史は、歴史家によってつくられるものなのである。未来ばかりでなく、過去もつくられていくのだと言わねばならない。

 人間は物語る動物である。しかし、語りには、虚偽がいつも忍び込み、そのため、物語としての歴史はいつも誤って伝えられる。だから、歴史は、語られるとともに騙(かた)られる。〈死人に口無し〉と言われるように、もはや存在しない過去の事実に対しては、ある意味で、どのようなことでも言うことができる。どう言われようと死人は反論できない。死者達は孤独で、どのようにも物語られていく。歴史が、故意に歪曲されたり、改竄(かいざん)されたり、捏造されたりするのはそのためである。クローチェが、傾向歴史とか偽歴史と言ったのは、そのような歴史叙述を指してのことであった。

 さらに、〈嘘からでた信(まこと)〉と言われるように、ほとんど作り話に近い証言でも、その証言がいかにもありそうで、人々の興味を引くような証言であるような場合には、それはしばしば本当にあったことと信じられて事実化してしまう。間違った証言でも支持を得るのは、一般世論がその普及を助長するからである。

 同じようなことは、新聞報道についても言えるであろう。新聞報道でも、しばしば、過去の歴史に単純な道徳的判断を押し付け、過去を非難するために、事実の歪曲や捏造がなされることがある。歴史的事実の選択や単純化はもちろん、偏見からくる誇張や言葉の言い変えがなされ、そこから、歴史的事実がつくりだされてさえいく。

 新聞報道で、ほんとうにそうだったのかと思わせるような感情的な記事があったなら、まずは疑ってかかるのがよいだろう。そういう記事は、たとえ事実に基づいていても、そこには脚色や誇張、演出や歪曲さえあるのだから。

(こばやし・みちのり)