ネット言論と新聞の“失墜”
欧州で一流紙部数半減
評価落とすプロパガンダ性
いま私が一番書きたいと思っていることは、残念ながら新聞(新聞一般)には書けないことである。私はこの欄に執筆の依頼を受けて以来、長い間書けないでいた。しかしインターネット・サイトには、主として翻訳記事だが、これまでなかったほど頻繁に旺盛に書いている。これは世界的な現象だが、インターネットの世界ではごく普通に言えるが、新聞では言えないことの分裂がますます顕著になってきた。
しかし世界日報は、インテリジェント・デザイン(ID)理論を話題にすることのできる、おそらく唯一の新聞である。このダーウィン進化論に対する代案を、主流メディアは無視し続けているから、大多数の人はそんなものは存在しないと思っている。まさに「存在しない」というのが反ID派の一貫した宣伝である。そのこと自体が異常と言えるだろう。これは証拠の検証によるものではない。明らかにダーウィニズムを必要とする何者かの強い意志が背後にあると考えねばならない。
かつて「世日クラブ」でこれを話題にしたとき、私は優生学というものがダーウィンを根拠としており、これを必要としたのがヒトラーだったが、実はヒトラーのような人間は、あの頃の欧米にはいくらでもいたという話をした。今はどうか。今も健在である。この思想はむしろ輪をかけて存在する。今の世界情勢を見て、あの苦い経験から人類は賢くなったと言える人はいないだろう。
ダーウィニズムとは何か? それは世界を神の手から奪って私物化するという思想である。今これがはっきり表れてきた。気象の私物化、水資源の私物化ということが今堂々と行われている(これはインターネットでしかわからない)。影の政府と言われる人々がNWO(新世界秩序)と言っているのも、世界の私物化である(これもメディアではタブーになっている)。今各地でくすぶっている大戦争への危機も、これが背後にある。
これ以上は言えない。これ以上は社会メディアでは、いわば“公序良俗”に反する「ヤバい」話になる。これがそうでなくなった時に世界は一変するはずである。しかしそこまで言ったついでにもう一つ言わせてもらうなら、去る4月、欧州評議会の前事務総長ヴァルター・シュヴィマー博士が大阪で講演されたとき、私は3分間の最初の挨拶でこう言った――「いま世界で異常なことがいろいろ起こっているが、これを理解するには霊的観点というものが必要で、9・11テロが米政府の説明するようなものでないという認識と、聖書マタイ伝13章の毒麦と良い麦のたとえ話が、今この2014年のことを言っているという認識がなければ、今世界で起こっていることは何一つ理解も分析もできないだろう」。シュヴィマー博士は、私の言ったことを明らかに気にしておられて、気の毒なことをしたとも思うが、これはあれから数カ月たった今、ますますはっきりしてきたと私は考えている。
この比喩で使われている「収穫」という言葉は、毒麦が焼かれ、良い麦がやっと表に現れて――新聞に対する有形無形の抑圧が取れて――世界が一変することだと解釈できる。世界の情勢を理解するのに、聖書などという非現実な観点を取り入れるのは馬鹿げているという人があるかもしれないが、私はこの観点を取り入れない見方は、却って非現実的だと考える。私は“終末”、すなわち世界が生まれ変わる大転換期というものがあり、今その過程として必然的な、究極の悪が世界を覆っていると考える。理性や理屈で考えられない狂気が、このあとしばらく続くものと考える。
私は新聞報道というものに、もう少し勇気を望みたいと思う。新聞に書かせていただきながら言いにくいことだが、新聞の評価は世界的に落ちているようである。ある論文からの引用だが――「ヨーロッパのこれまでの一流紙が読者の信用を失った。有力なインターネット・サイトに依存するヨーロッパ人がますます増加し、西側の主流メディアのプロパガンダ的性格を十分に知っている。主導的なドイツの新聞〈フランクフルター・アルゲマイネ〉の最近発表した図表によると、何らかの理由によって、ドイツ人がドイツの新聞から離れるようになった。ドイツの新聞の累計売上数は1983年に頂点に達し、3010万部が売れた。それ以来、事態は悪化の一途を辿り、2013年には販売部数はわずか1730万に落ち込んだ。これは42・5%というかなりの減少で、多くの新聞社をひどく傷つけている」。
この論文は更に続けて言う、「継続的なコスト削減計画、大幅な首切り、それに〈フィナンシャル・タイムズ・ドイチュラント〉のような日刊紙の廃刊が、ワシントンに忠誠を誓う諸新聞の結果となった。この減少の言い訳はいろいろあるが、本当の理由は、ドイツの新聞がもはや読者を真剣に考えていないということである」。
私の妻などは、新聞やテレビは公平で信用できるが、インターネットなどはいい加減なものだと言ったことがある。これはだいぶ前の話で、今はそんなことはない。
(わたなべ・ひさよし)