地球の環境を創造する人類
技術と文化が相互作用
倫理学で問題考え直す必要
最近の発達した生殖技術では、精子や卵子を冷凍保存して、生産年齢が終わってから妊娠子育てをするということも可能になり、遺伝子解析技術や遺伝子操作技術によって、あらゆる面で希望通りの子供をつくるというようなことも可能だという。このような生命操作技術のことを考えると、技術は、それ自身の原理で行き着くところまで行ってしまう魔的な部分があるように思われる。技術は価値中立ではなく、むしろ、善でもあり悪でもあり、善用もされれば悪用もされ、善悪も考えずに自己膨張していく両価値的なものではないか。
技術はそれだけの原理で存在するのではなく、社会価値や倫理、文化の中にある。技術者も、社会のメンバーとして、社会がもつ価値観の中にある。その点から言えば、技術の暴走は倫理の方から規制されねばならないし、それを取り囲む文化によって抑制されねばならない。その意味で、技術倫理は、社会価値や環境価値、さらに宗教や伝統など、技術を越える文化に基礎を置くものでなければならない。
しかし、また別の面から言うなら、技術が新しい人間の生き方をつくり、文化を変えていくという面もあるのではないか。例えば、遠い遠い大昔、旧石器時代のことだが、人類が打製石器を発明し改良したために、それまで人間を襲うとしか思えなかったマンモス象を倒すことができるようになり、今度は逆に、マンモス象が、人間の食えるおいしい肉に見えてきた。また、人類が植物栽培技術の開発つまり農業革命を起こしたことによって、定着が進み、女性の力が強くなり、社会構造も変わり、世界観も変わってきた。
今日でも、例えば、生殖医療の進展によって、親子関係についての新しい倫理観を作っていかねば対処できないようになってきている。ITの発達などを考えても、技術の進展の方が社会を変え、倫理を変え、文化を変えていく面があることが分かる。倫理も一定したものではなく、変わっていくものと考えねばならないのではないか。
とすれば、われわれは、文化が技術を変えていく面と、技術が文化を変えていく面の両面を取り出し、技術と文化の相互作用を考えねばならなくなる。また、環境が技術を生み出していく面と、技術が環境を生み出していく面の両面を取り出し、技術と環境の相互作用も考えねばならなくなる。
植林から始めたわが国の伝統的な治山治水技術には、その原理が働いていたように思われる。技術と文化、技術と環境の対話から生まれたこのサステイナブル・テクノロジーは、人間と環境にやさしい技術だったのではないか。また、わが国の伝統的な職人芸を念頭に考えると、〈物に聞く〉という言葉があるように、技術には、身体―道具―物―自然が一体になった技術がある。これも、やはり、そういう対話から生まれてきたものであろう。その意味で、伝統技術や伝統文化は大いに見直されねばならない。
しかも、この伝統技術や伝統文化が、今日のわが国の省エネ・省資源、環境技術開発に深く影響したと思われる。わが国でも、1970年代以来今日に至るまで、公害問題から地球環境問題にまで拡大した環境問題が起こり、今日もなお継続中だが、その間、わが国の環境技術も進展してきた。日本の環境技術は相当進んでいて、排煙脱硫装置から空気清浄器まで、現場の技術進展には目覚ましいものがある。その点、倫理学者が、技術という名で旧来の技術を念頭に置いていると、判断を間違う場合がある。しかも、この日本の進んだ環境技術を進めたエネルギーには、おそらく、自然崇拝とか清潔好きとか工作好きとかいう伝統文化が働いていたと思われる。
技術で起こしたものは技術で解決しなければならないし、問題解決するのも、やはり技術の力なのではないか。その意味では、技術による環境の創造という考えも提出していかなければならない。
藍藻のような単細胞生物から人類に至るまで、この地球上に生まれ出てきたあらゆる生物は、常に環境を創造してきた。珊瑚は珊瑚礁をつくり、海の中に陸地をつくってきた。人類も、農業革命から産業革命に至るまで、その良し悪しは別にして、技術によって環境を創造してきた。われわれ人類も、生きた地球の中にあって、技術的行為によって環境を創造してきたのだとも言える。われわれの技術的行為も、宇宙の創造的働きの一環なのではないか。
とすれば、技術においても、単なる環境適応とか、環境保全とかではなく、環境創造ということが必要なのではないか。そして、倫理学でも、〈技術と環境の共創〉という考えに基づく〈創造倫理〉の方から、問題をもう一度考え直す必要があるのではないか。
(こばやし・みちのり)






