政商が牛耳るウクライナ政治
暴力に訴えた権力闘争
露の90年代と似た国富簒奪
親露派のP・ヤヌコビッチ大統領(地域党。肩書きは当時、以下同じ)が2月の政変で追われ、それにとって代わった親欧米派の暫定政権によって5月25日、ウクライナの大統領選挙が行われた(投票率60%。ただし東部の投票実施選挙区は約3割)。ヤヌコビッチ政権で経済発展・貿易相を一時期務め地域党と密接な関係があったにも拘わらず、親欧米政策に鞍替えした大富豪のP・ポロシェンコ氏が当選した。信条より権力である。
ウクライナ東部・南部では暫定・新政権への不信から、親露派の武装勢力が庁舎などを占拠する行動に出ている。特に東部ドネツク、ルガンスク両州では大統領選挙前の5月11日に「国家としての自立」を問う住民投票を行い、12日「ドネツク人民共和国」(投票率約75%、賛成89%)、「ルガンスク人民共和国」(賛成96%)としてウクライナからの離脱を宣言した。
ここで疑問が生じてくる。オレンジ革命や2月政変がなぜ生じたのか。
2004年の大統領選挙でヤヌコビッチ氏が過半数を獲得したのに、デモが起こり(米国投資家G・ソロスが支援したといわれるオレンジ革命)再選挙となり、親欧米派のV・ユシシェンコ(元首相・我らがウクライナ党首)が大統領に、ガス関連の大富豪の全ウクライナ連合「祖国」党首Y・ティモシェンコが首相になった(その後ヤヌコビッチ政権下殺人容疑で収監、暫定政権誕生で釈放)。だが、経済政策に失敗、次の大統領選挙(2010年)でヤヌコビッチ氏が圧勝していた。
昨年末、ヤヌコビッチ大統領が欧州連合との協定締結を見送り、ロシアとの有利な経済支援を選択した。これに反対の親欧米派によるデモが発生、大規模反対運動・騒乱に発展、少なくとも80人の死者が出るにいたった。2月21日、フランス、ポーランド、ドイツ外相立ち会いの下、政府と反対勢力との平和協議で、デモへの武力不行使、大統領選挙の前倒しなど政権側の譲歩により、騒乱が終息するやに見えた。ところが、翌22日、治安部隊などの撤退の不意を突き、反対側の極右組織が市民に発砲、犠牲者が出た。家族や自分の身の危険を感じたヤヌコビッチ大統領は官邸を抜け出し、東部のハリコフに脱出した。
いずれも、首都キエフで親欧米派がデモに訴えた。後者は武装暴力による政権転覆である。全土での民意を反映する選挙では親欧米派が敗北するので、力に訴えたのである。
ウクライナの地域による人口構成などがいろいろと取り沙汰されているが、一般市民はウクライナ系、ロシア系であっても、部外者が思うほど意識せずに暮らしていた実態がある。ただ、西部の、戦後ポーランドからウクライナに編入されたガリツィア地方はカトリック教徒が多い。
ウクライナは独立後、共産主義体制から民主主義体制になり、国有資産を安価に手に入れ、財を成したオリガルヒ(政商、新興寡占財閥)が直接政治に参加したり、その資金援助で政治を動かす政治構造が続いている。
ロシアでもエリツィン時代に政商が蔓延(はびこ)っていたが、プーチン大統領は、ロシア最大の石油会社社長M・ホドルコフスキーを横領・脱税容疑で逮捕(2003年)したことを最後に、政商一掃を終了した。現ウクライナの政治は、ロシアの1990年代と同じ状態である。
政変後の暫定政権では、祖国党(与党地域党に次ぐ第2党)のA・トゥルチノフ氏が大統領代行、同A・ヤツェニュク氏が首相に就いた。極右・ネオナチの全ウクライナ連合「自由」から副首相を含め4名が入閣したり、騒乱を指揮したといわれる人物が国家安全保障・国防会議書記に就任している。さらにアル・カイダとつながる極右・ネオナチの右派セクター党首が同会議副書記に就き、武力機関に極右・ネオナチが浸透している。武装暴力で大統領を追放させたこともあり、この先が懸念される。
独立を宣言した東部2州や他地域で、親露の分離派武装勢力が現政権と闘争をしている。特に5月2日、両州同様独立を主張している南部の中心都市オデッサで女子供を含む市民多数(二百数十人説もある)を右派セクター主体の政権派が虐殺する事件も起こっている。
欧米が触れたがらないが、ウクライナの政治は政商の権益拡大に使われ、政治家・政商の権力闘争に翻弄(ほんろう)されている。これに欧米とロシアの思惑が絡み複雑な構造となっている。
今後も武力衝突や惨劇が続くと、安定を望む一般市民にさらに被害が及び、憎悪を掻(か)き立てて泥沼化していく。東・南部の市民も望まない内戦に陥る危険が懸念される。
(いぬい・いちう)