ユダヤ歩兵大隊の歴史的意義
獨協大学教授 佐藤 唯行
シオニストの大義広める
「建国の父」たちの鍛錬の場に
第1次大戦勃発に際し、英政府は英領スエズ運河の安全を確保するために隣接するパレスチナからトルコ軍を駆逐せねばならなかった。トルコはドイツ・オーストリアと同盟し、英国に敵対したからだ。この時、シオニスト系ユダヤ人たちは英政府に対し「共通の敵トルコ」と戦う英軍傘下のユダヤ部隊設立を求めたのだ。故国パレスチナをトルコ支配より解放する好機到来と見なしたからだ。
最初に認可されたのは後方支援を担う「シオン騾馬(ラバ)隊」だ。当初、戦闘任務を熱望していた若きシオニストたちも、「対トルコ戦線は何処(どこ)であれシオンに通じる」と諭す指導者トルンペルドールの意見に従い、輜重(しちょう)兵として参戦することで、シオニズムに対する英世論の好意を得ようとしたのである。
設立認可も地味な働き
風向きが変わったのは1917年。非英国籍者の戦闘部隊参加を認める法が施行されたのだ。これにより戦闘任務に就く三つのユダヤ歩兵大隊(第38、第39、第40、計5000人)の設立が認められたのだ。7月、英陸軍省は騾馬隊の隊長を務めたパターソン中佐に最初の大隊、38大隊の募兵を命じた。隊員1500人の中核はシオン騾馬隊の出身者120人だった。彼らは18年2月、パレスチナ作戦の終盤に参加すべく英領エジプトに上陸したのだ。
地中海の船旅を護衛したのは奇(く)しくも3隻の日本駆逐艦だった。パターソンは部下思いの大隊長だった。視察に訪れた某准将が兵士のボタンの汚れを見とがめ、「汚いユダヤめ」と侮辱の言葉を発した時、直ちに兵に銃剣装着を命じ四方を囲ませ、謝罪するまで囲みを解かなかった。パターソンは部下のユダヤ兵に真の愛情を注ぐキリスト教シオニストであった。けれど率直なユダヤびいきの姿勢は軍上層部に嫌われ、昇進の道は閉ざされてしまうのだ。
さてエジプトでの訓練を終えた38大隊が最初で最後の実戦に投入されたのは18年9月。ヨルダン川浅瀬の渡河地点を守るトルコ軍を駆逐し、橋頭保を占拠する任務だ。この成功により英軍本隊の東進が可能となり、その後のダマスカス占拠とパレスチナ方面におけるトルコ軍崩壊を導いたのであった。38大隊は「目覚ましい功績」を挙げたとは言えぬものの、地味な働きで味方の勝利に貢献したと言えよう。
しかし続く39大隊には実戦の機会すら殆(ほとん)ど与えられなかった。捕虜の護送と監視という「ありがたくない仕事」が主な任務だった。40大隊に至っては大戦終結時に兵の入営が完了しておらず、働きの場さえなかった。実戦投入の遅れは英軍上層部の差し金だった。ユダヤ大隊のパレスチナ方面での実戦配備はアラブ側に動揺を与えると判断したのだ。当時、アラブ軍は英将校「アラビアのロレンス」により指導を受け、英国の友軍として中東各地でトルコ軍と戦っていた最中だったからだ。
ユダヤ大隊の設立を認めながら実戦投入を遅らせるという相矛盾する措置は、ユダヤ・アラブ両勢力に同時に秋波を送らざるを得なかった英国の苦肉の策だったと言えよう。
最後にユダヤ大隊の歴史的意義だが、武功は慎ましいものであったが、シオニストたちのプライドの拠(よ)り所となったこと、とりわけ全世界のユダヤ社会にシオニストの大義を広める上で大きな宣伝効果を果たした点は重要だ。また後に「イスラエル建国の父」となる若者たちが一堂に集い、共に成長する鍛錬の場となった点も重要だ。
初代首相ベン・グリオン、3代首相エシュコル、2代大統領ベン・ツヴィ、初代参謀総長ドリ、労働党党首カツネルソン等錚々(そうそう)たる人材が兵卒として参加しているのだ。彼らは軍務の中で指導者としての資質を磨き、建国運動を軍事面で支えるための具体的方策を模索し始めたのだ。
イスラエル軍の源流に
とりわけベン・グリオンとエシュコルにとって、大隊への志願は戦後のパレスチナ情勢を見据えて、同地にユダヤの民兵隊を設立するための下準備として明確に意識されていた点は重要だ。
実際、彼らと気脈を通じる38大隊の元隊員たちは戦後、ユダヤ人入植地をアラブ・テロリストの襲撃から守る自衛組織ハガナ(防衛を意味する)を設立したのだ。このハガナこそ今日、中東最強と謳(うた)われるイスラエル国防軍の源流に他ならないのであった。
(さとう・ただゆき)