追い詰められるIS、アフガンなどでは支配地域拡大

 イラクとシリアの国境を無視したカリフ制イスラム国家の創建を意図し、残忍な処刑で、全世界を震撼(しんかん)させた過激派組織「イスラム国」(IS)は、米主導の有志連合軍や露支援のシリア政府軍、イランが背後のイスラム教シーア派諸勢力、クルド人組織などからの攻撃を受け、重要拠点を失うなど、敗色が濃くなりつつある。しかし一方で、アフガニスタンやパキスタンなどに支配地域を拡大、欧米の主要都市でテロを頻発させるなどして、アメーバのように増殖しつつある。
(カイロ・鈴木眞吉)

イスラム過激思想を拡散

預言者時代へ回帰目指し残虐行為に

 ISなどの過激派武装勢力が勢力を維持・拡大し、戦闘員をして戦闘に駆り立てさせているものは、その思想・信条・信仰にあることは明白。ISに奴隷として連れ去られ、そこから脱出に成功した複数のヤジディ教徒らによると、ISは、少年を含む若い戦闘員に、彼らの解釈するイスラム法をたたき込み、聖戦士に育て上げている。欧米でのテロ実行組がソーシャルメディアを使い、宣伝し、一人一人を“伝道”していることも確認できる。

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5日、シリア西部タルトゥスで、爆弾テロが起きた橋を調べる兵士ら=国営シリア・アラブ通信提供(EPA=時事)

 コーランとハディース(預言者ムハンマドの言行録)のみを教科書とし、歴史や芸術を廃棄、イスラムのみが正しいとの偏向・洗脳教育を施しているのが実態だ。

 イスラム教には四大学派が存在した。いったい過激派集団はどの学派に由来するものなのか。

 四大学派は、アッバス朝時代の8世紀半ばから9世紀半ばにかけて、ウラマー(イスラム法学者)層が形成された時代に、特定の法学者を学祖として成立、イスラム法の法源として何を重視すべきかで論争した。すなわち、コーランとハディース、イジュマー(イスラム指導者の合意)、キャース(類推、事例がコーランやハディースにない場合、類する事例から類推する)の採用やその優先順位をめぐる論争だ。

 イラクで活動したアブー・ハニーファ(699~767年)を祖とするハナフィー学派は、コーランとキャースを重視、ハディースは尊重せず、地域的慣行や法学者の個人的見解を重視した。現実問題にはより柔軟に対処できる学派で、オスマン帝国の公認学派となり、トルコやインド、中央アジアに広がった。

 サウジアラビアのメディナの法学者の息子で、同地で裁判官として生涯を終えたマーリキ・イブン・アナス(709~795年)を祖とするマーリキ学派は、個人的意見を認めず、ハディースを最重視、メディナの慣習法を重視した。エジプトのアズハル大学を拠点に、北アフリカやサハラ以南のアフリカに広まった。

 パレスチナのガザに生まれ、マーリキの弟子だったムハマド・イブン・イドリース・アッ・シャーフィイー(767~820年)を祖とするシャーフィイー学派は、ハナフィー学派とマーリキ学派を総合し、個人的意見を排し、四つの法源を定め、イスラム法解釈学を完成させた。この派は、バーレーンやアラビア半島南部、東南アジア、東アフリカ、中央アジアに広まった。

 イラクのバグダッド生まれのイブン・ハンバル(780~855年)を祖とするハンバル学派は、ハナフィー学派を批判、コーランとハディースのみを法源とすべきだと主張、世界は、コーランとハディースの世界に戻るべきだとした。この派は、預言者時代を理想とみたことから、回帰運動の源流とされる。シリア、パレスチナ中心に11世紀に最盛期を迎え、18世紀にアラビア半島に興ったワッハーブ派に受容され、サウジの法学派になった。

 イスラム過激派はハンバル学派の流れを汲(く)むとされ、ISなどが預言者時代に回帰しようとし残虐な刑を執行する理由がここにある。

 イスラム指導者や信徒の大半は、「IS戦闘員らはイスラム教徒ではない」と断言、自分とイスラム教に責任が降り掛からないようトカゲの尻尾切りして、必死で防衛している。しかし、テロリストらはほぼ全員「アッラー・アクバル(神は偉大なり)」と叫び、犯行に及んでおり、彼らは正真正銘のイスラム教徒だ。

 NHKの国際報道番組に出演した英国のイスラム研究の第一人者のラマダン教授は、イスラム教徒側が体質改善する必要があるとの見解を述べている。

 イスラム教徒は、非イスラム教徒の叫びを真剣に受け止める必要がありそうだ。