北朝鮮「水爆」は張り子の虎
体制の弱さの焦り露呈
核実験で揺れる中国・延吉
「延吉市内も揺れました。学校の校庭にもひび割れが生じたところもあり、大変でした」と、延吉にいる定点観測者が電話で答えてくれた。当初マスコミから「北朝鮮が震源の揺れが観測されている」と連絡があり、「何の揺れか」と聞いてきたので、とっさに浮かんだのは「白頭山が爆発でもしたのか」と思ったが、それなら噴煙でも上がるはずだ。が、そうでもなさそうだとのこと。
北朝鮮から脱北して来た知り合いも、「宮塚さん、北朝鮮を悪い国のように言うけれども、一つだけいいことがあるよ、それは地震がないということだよ」と言っていたことを思い出した。「一体何の揺れだ」と考え、「待てよ、北朝鮮が前回の核実験をした時に延吉の学校も揺れて大変なことになった」ということをこの定点観測者が言っていたので、先の電話で確認したのである。もっとも、この頃にはマスコミが「北朝鮮が水爆実験を行い、成功したと言っている」と大々的に報じていた。
金正恩第一書記は旧臘10日、「平川革命史跡地」(北朝鮮が初めて武器を製造した工場として知られる)を現地指導した時に、「水素爆弾の巨大な爆音を轟かせることができる強大な核保有国になることができた」と語り、北朝鮮が水素爆弾を保有しているかのようなことを暗示した。この報道を受けて早速、アメリカや韓国から「北朝鮮に水爆の実験をするほどの技術はない」と一蹴された。
しかも、毎年1月1日に発表される「新年の辞」でも核開発について言及しておらず、「北朝鮮の核実験はしばらくないだろう」、「水爆保有宣言はいつもの“弱者の恫喝”による金正恩の戯言」と思われていた。しかし、金正恩はこのような風評の間隙をぬって、あたかも“満を持した”かのように1月6日に実験を行った。
北朝鮮は「水爆実験大成功」と喧伝し、金正恩政権は文字通り“欣喜雀躍”したが、アメリカのアーネスト大統領報道官は1月6日の記者会見で、地震波などに基づく「われわれの初期の分析と一致しない」と述べ、核実験ではあったものの、水素爆弾の実験には否定的な見解を示した。他の専門家からも爆発の規模が小さいことなどから、水爆実験ではなく「プースト型核分裂弾ではないか」という指摘がなされるようになった。
このような海外における「水爆実験」否定に対して、金正恩は10日に人民武力部を訪れて演説し、水爆実験について「主権国家の合法的権利であり、だれも文句を付けることができない堂々たるものだ」と述べ、さらに「水爆実験は、米帝と帝国主義者の核戦争の脅しから国の自主権と民族の生存権を守り、朝鮮半島の平和と安全を担保する自衛の措置である」と実験を正当化した。
金正恩はまた「(この5月に36年ぶりに開催が予定されている)朝鮮労働党第7回中央大会を栄光の大会に輝かせるにあたり、党中央は軍隊に最も大きな期待を寄せている」と強調し、国防力強化に向けての科学技術の重要性を訴えつつ「経済強国建設と人民生活向上を支える先端技術の成果を出さなければならない」とも語った。
要するに今回の水爆実験は、米国に敵対政策の撤回を求めるシグナル(具体的には朝鮮戦争休戦時に締結された休戦協定を平和協定へ変えること)と、その実現のためには今後とも「核開発計画を進展させていく」ことを示したのである。「人民生活の向上を支える先端技術の成果」はこれまで何度も繰り返されてきた“常套句”であり、今回の水爆実験とは関係はない。自らの体制維持のための実験にすぎないのである。
金正恩政権が本当に「人民生活の向上を支える先端技術の成果」を出すとするならば、1986年に朝鮮労働党軍需工業部の傘下に原子力総局が設置されてから、30年以上にわたり開発が続けられてきた核・ミサイルの開発ではなく、人民の食べる問題の解決のための「先端技術の成果」を出すことではなかったのか。
金日成が「新年の辞」で、わが朝鮮人民の理想とする生活像は「白いご飯を食べて、肉入りのスープを飲んで、絹の服を着て、瓦葺の屋根の家に住むこと」と言ってから半世紀以上も経つのに、いまだにそれを実現していないではないか。そればかりか、毎年、年の初めから農業の生産向上のために、人民に北朝鮮式の主体肥料である“糞尿肥料”製造のための糞尿割り当てを強制的に行っているではないか。
政治的にも経済的にも全く利益とならない今回の水素爆弾実験は、自らの体制護持はおろか崩壊への第一歩になるかもしれない危険な賭けであった。中国の古典「三国志」に登場する諸葛孔明が敵を攻めあぐねている部下の馬謖に「敵を攻めるには、城を攻めるのではなく、人を攻めることである」と諭したというが、アメリカを交渉のテーブルに引き出すのなら、“核による恫喝”ではなく、“核開発の放棄と人道問題の解決”を明言し確約することではないのか。
張り子の虎の水爆実験騒動は、自らの体制の弱さの焦りを露呈しただけである。(敬称略)
(みやつか・としお)