台湾教育界の礎作りに命を懸けた「六氏先生」
【連載】台湾で祀られる日本人先覚者(9)
台湾の人々に感動を与えた教育への情熱「芝山巌精神」
台北市郊外の士林区に、たくさんの木々に覆われた小高い丘がある。MRT(台北捷運(しょううん))淡水線芝山駅から歩いて15分ほどであろうか。
太い筆文字で「芝山公園」と彫り込まれた門柱2基の間の傾斜の急な石階段を上ると、そこに小さな広場があり、老若男女が太極拳やダンスの練習、森林浴を楽しんでいる。ここが「芝山巌(しざんがん)事件」と呼ばれる抗日事件の舞台となった芝山巌である。
1895年6月、日本による台湾の統治が始まった直後のことである。文部省学務部長心得の伊沢修二は、初代台湾総督の樺山資紀に「台湾を統治するに当たって最も優先すべきは教育である」と意見具申した。伊沢は当時、音楽教育の分野で名を馳(は)せていた。卒業式ソングの定番「仰げば尊し」を作曲したとも言われている。
伊沢修二と教師6人が台北市郊外に「芝山巌学堂」を開校
樺山は、伊沢の進言を受け入れ、伊沢に台湾への赴任を命じた。楫取(かとり)道明、関口長太郎、中島長吉、桂金太郎、井原順之助、平井数馬の6人の教師、軍夫の小林清吉の7人を連れて台湾に渡った伊沢は早速、芝山巌恵済宮という寺廟を借りて「芝山巌学堂」を開校し、国語(日本語)教育を始めた。楫取は、松下村塾を主宰した吉田松陰の甥(おい)に当たる。
芝山巌学堂には最初、6人しか生徒が集まらなかった。ところが、9月末には21人にまで膨れ上がり、やがて3クラスに分けて教授するようになる。
だが、その頃、台湾では日本による統治に反対するゲリラが激しい抵抗運動を繰り広げていた。芝山巌近辺も不穏な空気が流れ、決して安全ではなかった。近隣住民の中には、彼らの身を心配して芝山巌から退去するよう勧める人もいた。しかし、彼らは怯(ひる)むことなく、「死して余栄あり、実に死に甲斐(がい)あり」として、命をなげうつ覚悟で芝山巌学堂に泊まり込み教育に没頭した。
「芝山巌事件」の悲劇、ゲリラの襲撃を受けて殉職した「六士先生」
そんな折、近衛師団長として台湾に出征していた北白川宮能久(よしひさ)親王がマラリアに倒れ薨去(こうきょ)する。伊沢は棺(ひつぎ)に付き添って一時帰国した。芝山厳事件の悲劇は伊沢の留守中に起こった。翌年元旦のことである。
小林を含む7人は、台湾総督府で催される新年の拝賀式に向かうため、悠々と山を下った。ところが、前夜未明に起きた抗日派のゲリラによる騒乱のため渡し船がなかったため、仕方なく一旦(いったん)、芝山巌に引き返した。正午ごろ、再び丘を下りようとすると、その途中で運悪くゲリラに遭遇してしまった。彼らは一斉に7人を取り囲んだ。その数は100人とも言われている。
彼らは臆(おく)することなく堂々と教育の枢要を説いた。だが、結局、彼らの主張は聞き入れられず、7人全員が惨殺されてしまった。楫取は39歳、関口は38歳、中島は26歳、桂は28歳、井原は25歳、平井は19歳、そして小林は38歳という若さであった。彼らの教育に対する情熱は多くの人々に感動を与えた。そして間もなく6人の教師は「六士先生」と呼ばれるようになる。
慰霊碑「学務官僚遭難之碑」や「芝山巌神社」なども創建
悲報を耳にした伊沢は、すぐ台湾に戻った。それから半年後の7月1日、彼らの遺灰が芝山巌に合葬され、来台中だった首相の伊藤博文の揮毫(きごう)により、「学務官僚遭難之碑」が建てられ、その遺徳を偲(しの)ぶ慰霊祭が厳かに挙行された。
続いて、第4代総督の児玉源太郎の下で民政長官を務めた後藤新平の撰文(せんぶん)による「台湾亡教育者招魂碑」と、芝山厳事件以後に台湾において教育に挺身(ていしん)し、志半ばで倒れた人々の名前が刻まれた慰霊碑「故教育者姓名」ができた。1917年、伊沢が急逝すると、遺言に従い遺髪が合祀(ごうし)され、第7代総督の明石元二郎の題字により「伊沢修二先生之碑」も建てられ、36年には小林を讃(たた)える「軍夫小林清吉君之碑」も建立された。
この間、六士先生を祀(まつ)る「芝山巌神社」も創建された。ここには台湾教育界に身を投じた日本人と台湾人が分け隔てなく祀られた。
国民党により石碑や神社が破壊されても、「わが師の恩」は忘れず
ところが戦後、中国大陸から蒋介石率いる国民党が台湾にやって来ると、彼らによって石碑も神社も破壊されてしまう。逆に日本による統治に抵抗した人々を「義民」と讃えるし、別の石碑まで造られた。しかし、台湾の心ある人々は六士先生のことを忘れなかった。
芝山巌学堂が開校されて100年目に当たる95年、芝山巌学堂を源流とする台北市立士林国民小学の卒業生によって簡素な墓碑が建てられた。墓碑の正面には「六氏先生之墓」と刻まれている。昔は「六士先生」であったが、今では「六氏先生」という表記が定着している。
本稿執筆に当たり、今年90歳を超えた「日本語族」と言われる台湾の知人に連絡したところ、「六氏先生の歌は知っているか」と問われた。知ってはいるが、聞いたことはない。「歌ってほしい」と告げると、「やよや子等 はげめよや 学べ子等 子供たちよ 慕へ慕へ 倒れてやみし先生を」と電話口で歌ってくれた。
台湾では、命を賭す気概を持って教育に当たる精神のことを「芝山巌精神」と呼ぶ。芝山巌学堂での教育は1年にも満たなかったが、台湾の人々は今でも「わが師の恩」を忘れてはいない。
拓殖大学海外事情研究所教授 丹羽文生








