大統領型首相目指す、日米軸に国際地位向上


 中曽根康弘元首相は、東西冷戦のさなか、保守、革新両陣営を代表する自民、社会両党が主導した「55年体制」の時代に、実力者として君臨した最後の政治家だった。内政面では行財政改革を断行し、外交面では日米同盟の強化を軸に日本の国際的地位の向上に貢献した。政策決定に際しては、自ら強い指導力を発揮する、トップダウンの手法を好んだ。

 鈴木善幸内閣の行政管理庁長官から政権の座に就いた中曽根氏は、前内閣から第2次臨時行政調査会(土光敏夫会長=土光臨調)を継承。質素な生活で国民的人気の高かった土光氏を前面に出し、国民の支持をバックに行財政改革を推進した。

 その最たるものが、「赤字たれ流し」と経営体質を批判された国鉄の改革。土光臨調の答申に沿って、1986年11月に国鉄改革関連法を成立させ、87年4月、分割・民営化を成し遂げた。国鉄改革には労組の力を弱める狙いもあり、JR移行後は安定した労使関係が続いている。

 初当選は28歳。早くから宰相を志し、「首相になったらやりたいこと」を大学ノートに書き記し、就任時には30冊ほどになっていたという。この蓄積の中から、「中曽根行革」が生まれた。土光臨調を含め、審議会や私的諮問機関を積極的に活用。トップダウンにより短期間で方針を決定、実行に移す「大統領型首相」を目指した。

 中曽根氏は、鈴木内閣時代の日米関係を「戦後最悪」と断じ、ぎくしゃくした関係の立て直しに尽力。また、韓国を就任後最初の訪問国に選び、共産陣営に対抗して自由民主主義に立つ日米韓3国の関係強化に努めた。

 特に、日米関係を「運命共同体」、日本列島を「不沈空母」と表現し、安全保障面での日本の役割拡大を進めた。具体的には、三木武夫内閣時に定めた防衛費を国民総生産(GNP)の1%以内に抑えるという政府方針を撤廃、87年度予算で1%を突破した。米国への武器技術供与にも踏み切った。こうした日米同盟強化の流れは、安倍晋三政権における集団的自衛権の限定行使を認めた安全保障関連法の成立につながった。

 若手のころから自主憲法制定を唱え、党内では、親米保守の「タカ派」に位置付けられるが、首相としては中国との融和も重視。85年8月15日、靖国神社に公式参拝したものの、同国の反発を受けるや、首相在任中は以後、参拝を自粛した。